おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

実直に退屈であろうとすること。- TOP MUSEUMコレクション展 平成をスクロールする 春期「いま、ここにいること」展

 

TOP MUSEUM(これ、いまだに慣れない)にて、「いま、ここにいる」展を見てきました。

 

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今回は「平成をスクロールする」と題されたコレクション展で、写美が持っている平成に制作された写真を通して、平成の写真がどんなものだったか、そして平成という時代がどんな時代だったかをを振り返る展覧会だったとおもいます。

 

わたしが気になったのは「いま、ここにいる」という展覧会タイトル。

というのも、なんか聞いたことあるなーって感じがしたから。

たぶんこれは、おととし?原美術館で行われた「そこにある、時間」展を思い出したからかと思います。

(そっちについても書いているのでぜひです↓)

asaito.com

 

これらの写真展のタイトルを見るとわかるように、複数の写真をまとめて語るとき、その言葉は「そこにある」とか、「ここにいる」とか、「こそあど言葉+be動詞」的なノリになりがち。

わたしとしては、こういうフレーズ、なんかはっきりしないし、しっくりこない感じがしちゃうんですよね。

そこってどこだよ!いるって誰がじゃ!みたいな。展覧会を見るときの手がかりになるタイトルとしてはどうもつかみにくいし、ちょっと逃げられている感じさえしてしまいます。

 

だけど、こういう、なんかつかみにくい、ちょっと逃げられている感じは、「いま、ここにいる」展を見た感覚そのものでもありましたし、平成初期の日本の写真の特徴ともいえるんじゃないでしょうか。

 

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たとえば、ホンマタカシの郊外のシリーズ。

90年代を代表する写真のシリーズだと思いますが、この淡々とした、冷めた感じが90年代のテンションをよくあらわしていると思います。

わたし自身は、91年にうまれてからずっと、そこそこ「郊外」っぽいところに住んでいるので、90年代の郊外のテンションというものを確かに感じとってきたとおもう。清潔で便利なんだけど、ちょいちょい変なことが起こるし、変なひともいる。モンスターみたいな子供とモンスターみたいな親がいて、年老いていく親の親とかいて、そういうのを見たり聞いたりしながら、自分が「ここにいる」意味とかについて考えをめぐらせたりとかしちゃうわけです。

「別に親が住み始めた場所ってだけだしなー。」とか思ってるうちに

「ここにいる」ことについて冷めた(醒めた)感じになる。

「よくはないけど、別に悪くもないしなー。」的な。

 

そういう90年代のテンションについて、社会学者の宮台真司は「終わりなき日常」と呼んでいます。

f:id:yzgz:20170604113756j:plain (宮台さん)

 

「いま」より良い、「素晴らしい未来」に向かって突き進んでいた社会は、平成になって、ある程度成熟してしまって、ちょっと飽和状態になってしまった。

目指すべきものがないからずーっと平穏なんだけど、とても退屈な日常が続いていく状態、それが「終わりなき日常」です。

(「終わりなき日常」はオウム真理教について宮台真司が書いた本で語られた言葉ですが、平成を語るときには未だによく使われるキーワードです。)

 

さて、写真の話に戻ると、平成の写真と対象的なものとして、昭和の写真があります。

昭和の写真は、日常のなかに、私的な物語を見出したり、特別な瞬間をすくうような写真だったと思います。(もちろん例外もあるけど。)特別というのはつまり、終わりがくるもの、終わりが見えている瞬間を大切に保存しようとすることなんじゃないかなー。

 

アラーキーの「センチメンタルな旅」だとか、

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中平卓馬をはじめとするprovokeのメンバーのアレブレボケ、土門拳の撮るこどもも

 それらの多くが、カリスマ的に言葉を発する写真家本人やその界隈のひとによってさまざまに論じられてきました。写真が言葉を求めていたとも言えるかもしれません。

 

だけど、「いま、ここにいる」展で見られる今回の平成の写真は、別に言葉を求めたりしない。単にだるい、退屈な日常をそのままにとらえておく、という感じがします。

だから、確かに「ここにいる」であり、それ以上に語る言葉が出て来ない。

 

ロラン・バルトは写真論『明るい部屋』で写真の本質は「それは=かつて=あった」を告げることと言っていますが、「いま、ここにいる」も、時勢が現在になってはいますがほぼ同様の意味と言うことができるでしょう。

つまり、「いま、ここにいる」は写真そのものを示す言葉でもあるのです。

 

昭和の日本の写真家を、文学的に写真を用いて写物語を紡いだり、無意識を投影する一種のセラピーのように写真で世界と向き合ったりしていた、とすると、昭和の写真は、写真に写真以外のものを担わせていたのかも。

 

平成の写真家は、その流れに反発してか、社会の空気を写してなのか、写真を写真として扱い、それ以上に言葉を発したり求めたりしていません。写真にしかできないことを写真でしていたと言えます。

だから彼らの写真は、写真そのものを指す「いまここにいる」であり、言葉の外に出て、余分な意味づけを回避している感じがします。

   

とはいえ、わたしとしては「なにげない日常の風景を切り取る」ってなにげなさすぎじゃない?って感じがしちゃうのですが、退屈でゆるやかに見える平成の写真は、写真でしかできないことに実直に向き合っている写真なのかもしれません!

 

 

今回の「いま、ここにいる」展は、3クール連続で行われる「平成をスクロールする」というシリーズの初回、春期のコレクション展だそうです。

 

あと、夏期、秋期があるようなので、ことしは平成についてじっくり考えてみるのもいいかも!

 

topmuseum.jp

 

あと、TOP MUSEUMの前のスナック気になる。。。

ぜひです!

ではまた!

 

「パロディ、二重の声」展で、深く暗い川について考える。


ご無沙汰です。
東京ステーションギャラリーで「パロディ、二重の声」展を見てきました。

www.ejrcf.or.jp

 

ステーションギャラリーの入り口、東京駅のドームのところ、わくわくしませんか!

いつかステーションホテル、泊まってみた〜い

 

さて一昨年、2020年の東京五輪エンブレム問題というのがありましたよね。

 

まずエンブレムのデザインが酷似している、ということが話題になり、更にエンブレム使用予想図?の写真が無断で流用されたものだと指摘され、デザイナーの他の作品までもが批判を受ける始末で、最終的には政治利用っぽい感じもありつつ、結局審査し直し。

その上デザイナーの出身大学であるタマビの別の学生にまでパクリ疑惑!とかなって炎上にあしたりして。正直に言って、どうかしてるぜ〜。な状況でした。

 

この一連の出来事で、世の中の多くの人とデザインやアートを生業にする人との間には、深ーくて暗ーい川が流れていること、そして、アートやデザインの孤立みたいなものを、私は目の当たりにした気がしました。

 

そんな出来事によって明らかになった深く暗い川に対して、美術の展覧会ができることはなにか、というと、「正当なパクリ」としての引用やパロディについて考える場をひろく提供することなのだと思います。


(もちろん、あのエンブレム騒動は佐野氏にも若干の落ち度があったと思いますので、「正当なパクリ」ではなかったかもしれませんけど、パロディや引用などの手法を「パクリ」というレッテルをはって批判するのはもったいないと思います。)

 

今回の「パロディ、二重の声」展はあのときにアートやデザインの側につきつけられた「美術(orデザイン)におけるパクリとは何か?」という問いにアンサーを返すような展覧会でした。

その展覧会テーマが集約されている横尾忠則の作品を見てみましょう。

 

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左側は「パロディ、二重の声」展のポスターに使用された1968年の東京五輪亀倉雄策の超イケてるポスターを引用した横尾忠則の作品。

右側は、元の亀倉さんのポスター。今見てもフレッシュ。

 

この横尾の作品がメインビジュアルとされたことで〈オリンピックと「パクリ」〉というキーワードによって、なんとなく70年代前後と現代のアートやデザインが繋がってくる気がします。

 

 横尾の作品「POPでTOPを!」にはこんなセリフが書いてあります。

POPでTOPを!
芸術貧の方は「POP」印のカンヅメで
TOPをかちとろう.....!

よくよく見ると、ここで走っているのは、手前からピカソ、ルオー、スーラなどなど。超豪華メン。

そんななかで先頭(トップ)を走るのは、リキテンスタインポップアートの代表的なアーティストです。

 

 f:id:yzgz:20170410190936j:imageこんな作品を作っています。

 

 彼は、高尚ぶったアートに大衆的でポップなカルチャーとしての漫画を取り入れ、その1コマを拡大したような絵画を作りました。つまり芸術とは言えない一般的な娯楽のひとつであった「漫画」をパクった、といえるかもしれません。

さらにリキテンスタインの絵にはもうひとつ「パクリ」があります。

それは彼が絵に使う色。赤、青、黄の三色は、抽象画家のモンドリアンがよく用いた色使いです。

 

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こうしてみると、リキテンスタインは「パクリ」だらけのアーティスト、ということになりますが、彼は最も高く評価されている現代アーティストのひとりです。まさに、トップを走っているアーティストです。

 

リキテンスタインなどのポップアートが流行した60年代(日本では70年代前後)は「オリジナリティや個性を尊重する芸術品」よりも、横尾忠則の作品における「芸術貧(ゲイジュツヒン)」的態度、つまりそれまでの美術史の引用や、それまで芸術品にはなりえなかったモチーフや材料を参照した「オリジナリティを持とうとしない立場」が優位にあったことを示しています。

 

 つまりリキテンスタインは意図的に、バレてもよい、むしろバレたほうがよい、という立場で漫画やモンドリアンを「パクった」のです。

 

この「パクリ方」こそ、リキテンスタインの作品の重要な要素なのであり、「正当なパクリ」であるパロディや引用です。

また、亀倉さんのポスターを「パクり」、リキテンスタインをはじめピカソやスーラなどの絵を「パクった」横尾忠則の「POPでTOPを!」も、パロディであり引用。

 

ここまでだけでも引用の引用、パロディのパロディ、と、今回の展覧会で扱われている作品がとても重層的なことがわかると思います。

故意に真似をして、真似した先を隠す一般的な意味でのパクリとはやっぱり違います。

 

ただ、その違いももちろん曖昧。

 

ではどこからが悪でどこからが正当なのか?

 

いろいろな観点や分け方があると思いますが、

わたしは、パクリとそれ以外のパロディや引用との違いは、それがある種の「ドキュメンタリー」として機能するかどうか、はひとつポイントではないでしょうか。

 

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こちらのフォトコラージュを制作した木村恒久は自分の作品を「ドキュメンタリーとしてのフィクション」と定義しています。

「ドキュメンタリーとしてのフィクション」のわかりやすい例にこちらがあります。

 

 

 

ぷろだくしょん我Sの「選挙演説」の作品です。

 

展覧会ではこじんまりとしていますが、実際は公園にたくさんの空気人形を持ってきて、選挙演説を再現したとのこと。でたらめな選挙演説の音声もついています。

選挙の形式的な儀式や慣習、システムに、「虚しいぜ」と感じた若者アート集団が、選挙を中身が空虚な空気人形を使って「パクった」というわけです。

つまり、選挙演説のパロディ。さらに言うと選挙演説のドキュメンタリーをフィクション的要素の強い人形で行なっているのですね。

 

 さて、これを選挙演説の悪い意味でのパクリと呼ぶか?というとそういうわけではないですね。

 

このようにフィクションを通して世の中や美術の世界の実際のできごとをドキュメントするための「パクリ」はやはり正当なパクリと言ってよいでしょう。むしろ、選挙というフォーマットを空気人形で「パクる」ことで、選挙活動に対して直接的に、「あんたのやってることは空虚だ!」と批判するよりも、すごく強い意味を持つ作品になっていると思うのです。

 
美術やアートにおいて、オリジナリティとか個性を前提とする慣習は未だに根強いです。

学校ではなにごとも真似はいけませんよって教わることが多いしね。特に美術では。。
それは慣習っていうより信仰に近くて、なかなか簡単に変えることはできないかも。

たぶんそういう無意識の信仰が、例の深くて暗い川を作っているのでしょう。

 

デザインの世界の常識、昨今のアートの現状、それは必ずしも一般常識ではないし、逆に言えば、アートは「一般常識」との間に深くて暗い川を敷くことよって自らを権威付けている、ともいえるわけです。

 

この展覧会はそういう深くて暗い川を、ライトな面白さとパロディ作品の重層的な引用を明らかにすることによって、すこーしだけ、浅く、明るくしてくれるかもしれません!

 

ここまでたらたらと書いてきましたが、そういうのは無視しても普通に笑えて面白いのでぜひです!

f:id:yzgz:20170411210938j:image しょーもなさ(笑)。

 

残り1週間切ってますがぜひ足を運んで見てくださいませ!

 

 ではまた〜!

 

アールデコ建築でスピる?- ボルたんの「アニミタス – さざめく亡霊たち」展

 

東京都庭園美術館で、クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会「アニミタス – さざめく亡霊たち」を見てきました。

 

www.teien-art-museum.ne.jp

 

ボルタンスキーといえば、もう現代美術の世界ではスーーパーー巨匠クラスで、日本でもいくつかの恒久展示があるし、とても見ごたえのあるアーティストだと思っています。

彼はホロコーストに影響を受けて死や亡霊をテーマに作品を作っていて、無名の人の写真・古着、そして音や風などを、作品を作るときの道具にしています。写真も古着も、人の生きたこと・死ぬことを思わせるとても強いアイテムですし、音や風はその演出に大変な効果があると思います。

 

わたしは、豊島の心臓音のアーカイブでとても感動したし、大掛かりな舞台セットのような作品(越後妻有の《最後の教室》など)は、現代美術をあまり見たことがない人にも、インパクトのある「現代美術のよい思い出」にできるような体験を提供してくれるアーティストだと思っています。

 

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そして、今回の「アニミタス – さざめく亡霊たち」展は、素敵なアールデコ建物である目黒の東京都庭園美術館で開催されるとのことで、美術館の場とかその場の記憶みたいなものに、寄り添ったよ、という体裁をとっています。

(ちょっとボルタンスキー長いので、ボルたん、と呼びます。)

 

体裁をとっている、と申しましたように、わたしは今回の展覧会、正直あんまり満足のいくものではありませんでした。

 

展覧会全体を通して印象的だったのは、ボルたんのインタビューです。

原文ままではないですが、ボルたん曰く、

「実際に見るより、その作品のことやその作品が存在していることを知っていることの方が意味がある」とのこと。

 

これは、インタビューの中で、展覧会のタイトルになっている作品《アニミタス》についてボルたんが語っていたことです。

 

f:id:yzgz:20161108193603j:plain(《アニミタス》)

 

《アニミタス》は、チリのアカタマ砂漠に、ボルたんが生まれた日の星と同じように配置された日本製の風鈴が風に鳴る様子を撮影した映像作品です。

アカタマ砂漠は、地球上で最も乾燥している高地で、そのために、すごく星が良く見える場所なのだそう。

だけど、その標高2000mの土地に、人が頻繁に訪れることはなく、その作品は、ほとんど映像でしか見ることができない。

 

ボルたんがその《アニミタス》という作品について「実際見ることよりも知ってることに意味がある」と語ったことは、今回の「アニミタス」展全体について語るときにも当然通じるところだと思いました。

ただ、今回の「アニミタス」展について言うならば、「実際にこの展覧会を見るよりも、ボルタンスキーの他の仕事を知っていてようやく意味がある」と言いたくなるような感じ。

 

例えば《帰郷》という作品。

《眼差し》という作品の中にあるのですが、急に会田誠の作品(↓)が出てきたのかと思いました、、、、実は金色のエマージェンシーブランケットで古着の山を包んだもの、だそうです。

 

f:id:yzgz:20161108194139j:plain (会田誠《おにぎり仮面》これにそっくりの作品があるのです)

 

先ほども書いたように、ボルたんといえば、古着はおなじみです。

人の気配と同時に不在を強く感じさせることのできる古着を使った作品は、本当に強烈なインパクトで、心がざわつきます。

 

f:id:yzgz:20161108193922j:plain(越後妻有《No Man's Land》わたしはハウスダストアレルギーなのでこれはめっちゃ鼻水出そう)

 

しかし、今回は古着の山がエマージェンシーブランケットで完全に覆われています。

この作品は、ボルたんの古着の作品について知っていてこそ、その意味が際立つ作品だと思う。もちろん美術に少し関心のあるひとなら知っていると思います。でも本来、ボルたんの作品で古着が想起する生死の気配を拭ってしまってはいないでしょうか。。。ここでボルたんの作品をはじめてみる人には通じないんじゃないか?そういう人は観客として想定されていないの?

うんこ、うんこ、って部屋のいろんなところから聞こえてきたしさ。。。

 

おびただしい数の古着を見た時にはホロコーストや、日本人だと毎年起こっている災害のことを想起しますが、それを、1枚(に見える)エマージェンシーブランケットで覆ってしまったときに、ひとりひとりの命や精神の重要性が際立ってくるとは私にはどうも思えない。

作品解説には 

この作品が初めて発表されたメキシコの都市モンテレイは外国資本が多く入る有数の裕福な都市ですが殺人事件が多発する最も危険な街でもあります。その姿は唯一無二の存在感を放ち、富をもたらすと同時に災いの元にもなり得る“黄金の山”の表裏を思い起こさせます。一方で、持ち主不明の大量の衣服の山にエマージェンシーブランケットで覆う行為に、一人ひとりの生死を残酷なまでに等しく見つめるボルタンスキーの一貫した眼差しも感じられます。(一部抜粋)

 と、ありますが、、、、

 重症の患者にかけるブランケット、メキシコの危険な都市、黄金、古着、無名の多くの人の生死。。。とりあえず全部詰め込んではあるけど、どうもクリアにつながってきません。。。(やっぱりわたし鈍感なのかな)

 

その《帰郷》のまわりにあった《眼差し》という作品も、なんだか、写真の持つ生と死の感覚みたいなものをうまく反映できているようには思えませんでした。

 

写真を材料として使う場合には、写真の「真実」という要素や「証明」という社会的役割だとか、いろんな引き出しがあります。

ボルたんは、ずっと人物の写真を使用しているので、写真が想起させる「被写体が確実にこの世に存在していたこと、そしていまはもういないかもしれないこと」という「人間の生死」の気配が、彼の写真についての関心事だったのでしょう。

 

この《眼差し》では、証明写真の目の部分だけが拡大されて軽い布にプリントされていて風にふわーっと揺らぐのですが、この写真の使い方にはちょっとフィクショナルでエンターテインメントっぽい「亡霊」っぽさを感じてしまいました。

あるいは。ホラー映画で幽霊出てくるときってなんかいつも風吹いてるよね!!!みたいなテンション・・・?

 

f:id:yzgz:20161108194429j:plain(《眼差し》とわたし)

 

(カルチャー系シティーボーイアンドガールのフォトスポットとしては、インスタ映え間違いなしです。)

(平日は写真撮影ができるので、空いてるし、おすすめ!)

 

それよりなにより納得がいかなかったのは、《さざめく亡霊たち》でしょうか。

今回のこのあんまり気に入らないっていうテンションはそもそも、この↓インタビューを読んでいて、美術館に行く前からボルたんなんかスピってねえ?と思ってた、というのもあります。

旧朝香宮邸で「亡霊」たちの声に耳を傾ける 東京都庭園美術館でボルタンスキーの展覧会

「旧朝香宮邸を訪れて、昔のパーティーで人々が踊っているのを感じました」、、、!?!?)

角度をしぼったスピーカーからの音声で、耳元でささやかれているように聞こえる《さざめく亡霊たち》は、ちょっとボルたん様、お名前の看板に頼りすぎてませんか?という気がしました。

 

彼なりに美術館の記憶、そこで暮らした人(の亡霊)に寄り添ったり、対話したりしてできた作品かもしれないけど、関口涼子さんによる「さざめき」のセリフもなんだか肝試し風だし。

あの耳元でささやかれているような感覚と、美しいアールデコ建築だけでは、解説のように「歴史とは「事実」の連なりではなく、もっと複雑で重層的なものだということを思い起こさせ」てはくれないんじゃないかなあ。。。

でも、あの指向性スピーカーは不思議体験。びっくりできて楽しいかもしれません。。。。

 

と、まとまりませんがこんなところで今日はおしまい。

ボルたん自身もインタビューで「ほとんど子供じみた遊びです」と語っていた《影の劇場》でおわかれしましょう。

 

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なんかこの言葉、展覧会そのものに当てはまっちゃってんじゃないだろうか・・・と不安になりますが・・・・。

今回の展覧会はさておき、ボルタンスキーは現代アートの大巨匠ですし、素敵なアールデコ建築で作品を見ることができるのは寒空のデートにぴったりではないでしょうか!

最後のインタビューまで見るとより楽しめると思いますので、インタビューはじっくり時間をとって見るのがおすすめです。

とても楽しめたという人がいればオススメポイントを教えてください!

12月25日まで。ぜひです!

 

わー修論かかなきゃ〜〜〜(泣)

 ではまた!

ボブ・ディランのノーベル賞受賞に思ったこと - 「文学」のふしぎ

実のところボブ・ディランには特別な思い入れはないし、わたしはとても読書家というわけではないんだけど、本を読むことは好きだし、文学というものも好きだと思う。

 

たぶん、文学よりも「これぞ、文学だ!」と、言われている映画とか漫画、美術作品、いわゆる、「文学だといわれている文学以外のもの」が好き。
「これぞ、文学だ!」という言葉は、文学に使うこともあるだろうけど、
ふしぎに形容詞的な、なにかしらの雰囲気を示す使い方をされている言葉ですよね。


最近だと田根剛の建築について杉本博司が「文学的な建築」だと言っていて、なんとなーくエストニア国立博物館、確かに文学っぽい建築かも、としっくりきてしまいました。

 

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  (あんまりいい写真がないみたい。詳しくは情熱大陸の動画を、、どこかに落ちてるはず!)

で、ノーベル文学賞を、ミュージシャンが受賞したわけですがこれまた、文学だといわれている文学以外のもので、、、「文学」って言葉にちょっと酔ってきました。

 

たぶん、ボブ・ディランが賞を授与された意図は、文学の概念の拡張なんじゃないかなと思っているんですけど、
現在のノーベル賞のカテゴリーの中で美術や音楽は(たぶん平和っぽいもの以外)賞の対象にできないなかで、ノーベル賞が与える文化的な賞のカテゴリーが文学賞であることはなかなかにおもしろいことだと思います。

 

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 イケてる。。。

 

 ただやっぱりそうなると、文学ってやっぱりほかの芸術よりも上位っぽい感じがなんとなくするし、そうなると、「文学的」は最上位の褒め言葉ってことなのかもしれない。


そして、ノーベル文学賞はそのうち、「文学的な文学以外のものにも『文学』という最高の褒め言葉を与える」賞になるのかもしれませんね。

じっさい、経済学以外の賞は、ノーベルさんの遺言によって設立されているようなので、ノーベルさんが文化的なものの至高のものを文学だと思っていたのかも。


というのも最近、「写真とはなにか?」という2013年の(最近!)の論文を読んでいたら
サルトルの「文学とはなにか?」が発表された時(1948年)の文学の状況が、現代の写真の状況に似ているよね、という内容で、なんだかホットに感じたからなのです。

 

実際、文学の概念の拡張や転換、戦前までの文学に対する疑いは、戦後の混乱のヨーロッパにおいて、1948年には言われていたことなんじゃないかなと思うんだけど、ボブ・ディランノーベル賞受賞によって、狭くて、敷居の高〜い文学理論から、ようやく昨日、(約70年後に!)世間一般の理解の範疇に浸透しはじめるんだと思います。


先日トーマス・ルフ展について書いたとき、「最近の写真は、写真という概念を拡張している」と、書いたのですが、全世界が注目するノーベル賞で大胆にも文学の概念を拡張する文学のポピュラーさには、ボブ・ディランをよく知らなくても素直に、すっきりとした心で喜べます。

 

対して写真の概念の拡張は、現代美術の世界のなかで、いまひっそりと行われているところ。あるいは、ようやく写真の合成が当たり前になった中で、じわじわと拡張しているところなのかもしれません。

 

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 (フォトショでぐにゃぐにゃ背景の紀香 ) 

 

フェイスブックとかのSNSでは、おもしろ写真とかびっくり動画、あと、めっちゃかわいい女の子とか。見ることがありますが、それを見て合成だった時の「がっかり感」、それこそが、わたしたちが写真に期待する写真の姿なのだろうと思います。

その「がっかり感」がなくなったときが、写真の概念の拡張や転換が一般的になった、といえるのかもしれませんね。

 

まあいまから70年かかるかもしれないけど、その頃に写真ってあるのかな。。。?
文学か、「文学だと言われている文学以外のもの」はあるかもね。

あるといいなー。

 

と、結局写真の話になりましたがきょうはこのへんで!

では!

明日、世界が終わりませんように!(シン・ゴジラとロスト・ヒューマン)-- 杉本博司「ロスト・ヒューマン」展について

 

東京都写真美術館、通称「としゃびorしゃび」ですが、リニューアルして通称が「TOP MUSEUM」に変わったようです。TOPって!大きく出たねこりゃっ!

ってことで、杉本博司「ロスト・ヒューマン」展見てきました。

 

最初から最後までおもしろく、わくわくしっぱなしだったのですが、このわくわくしっぱなし感、最近なんか味わったぞ・・・・。と、思ったら、映画「シン・ゴジラ」でした。

実は、私はこの夏、シン・ゴジラにドハマリしていて4回も見ちゃったのですが、今回の「ロスト・ヒューマン」展、シン・ゴジラの、特に前半部分の興奮に似ていると感じました。

 

想像し得る最悪の状況、既視感のある災厄、うまく対応しきれない政府や専門家。

そしてそういうリアリティーを産む細かい描写と、破壊の美しさに、頭がぼーっとしちゃう感じ。そして張り巡らされた圧倒的情報量によって頭がくらっとやられて勝手にノッちゃう感じが、シン・ゴジラの熱狂ポイントであり、それは「ロスト・ヒューマン」展〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉のおもしろさそのものでもあると思うのです。

 

33の終末の物語 + 杉本博司の過去の作品 + ファウンド・オブジェの3つの要素で構成されている〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズは、これらが絡み合っていろんな論点を匂わせていて、ひとつひとつのストーリーが充実しすぎてて、もう全部論じきれないよ!!(ってとこもシンゴジラに似てる)でも、超おもしろい!楽しい!わくわくしっぱなし!って感じでした。

 

まー、論じきれないよ!とか言ってるのもちょっとあれなので、今回わたしは、やっぱり、「写真美術館」という場所で開催されたことを含めた、写真という杉本博司の原点に立ち返って考えたいと思います。

 

f:id:yzgz:20160921215627j:image  (こちらは昨年の千葉市美術館での展覧会の写真)

 

今回、存在感を発揮しまくっていたファウンド・オブジェ(既製品を持ってきてそのまま展示するスタイル。)の数々ですが、写真家として活動を始めた(であろう)杉本博司なのだから、それらのオブジェを写真にして展示することもできたはずです。

そもそも、写真にはファウンド・オブジェ的な性格があります。

被写体の風景や姿を写真にとることで姿を借りて再現するというのは、写真の用途のひとつです。(たとえば、遺影なんか、まさにそうです)

でも、それをせずに、実物を持ってきてそのまま展示したということは、(若干存在感薄まっちゃった感じもするけど、)彼自身の写真作品、そして彼が写真でやってきたことにメッセージを込めたかったんじゃないかな、と思うのです。そして、33の物語にリアリティを持たせて、私たちに文明の終わりを想起させなかったんじゃないかな。と。

 

杉本先生は「写真のできること」にすごく自覚的です。

写真が過去のある地点・ある部分の時間をパッケージしたものであることは、事実。

そして、写真が撮影者本位に被写体や時間を切り取ることのできる、虚構であることも事実。

 

だから、もし、ファウンド・オブジェの数々を写真にしてしまうと、それらのグッズに過去だの未来だのの時間を与えてしまうし、うそっぱち(虚構)であることを強調する結果になってしまいます。

 

だけど、杉本博司のこれまでのシリーズでは、とっくに死んでいる歴史上の偉人に実在感をもたせたり、映画1本を写真にしてしまったり、ジオラマを撮影して虚構を現実に見せてしまったりして、「写真のできること」をひっくり返してきました。

 

f:id:yzgz:20160921215808j:image   (こちらも上の写真同様)

 

 そして今回は、とうとう、未来を写す写真に挑戦したのだと思います。

トーマス・ルフも別のやり方で同じ試みをしていましたね〜。) 

 

yzgz.hatenablog.com

 

ただ、写真のできることに自覚的な杉本博司らしく、

33の終末の物語 + 杉本博司の過去の作品 + ファウンド・オブジェ

の組み合わせによって、〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズは、写真美術館の他の展覧会では出会うことのできないであろう「未来」を見せてくれたのではないでしょうか。

 

2Fの新作「廃墟劇場」は、この「ロスト・ヒューマン」展のなかでどういう位置づけにあるのか、もうちょっと考えたいな、というところなんですけど(ごめんなさい)。。。

 

あと、三十三間堂は、本当に狂ってて京都でも好きなスポットのひとつなのですが、そこで撮影された「仏の海」シリーズも、大好き。

信仰の対象を量産して、俗世の不安を取り除こうとして作られた三十三間堂の仏を、写真に撮って複製するってもう、「仏が海じゃ〜〜〜〜ん!!!!」状態なんだもん。 

ずーっと眺めていたいし、三十三間堂に行きたいなあとも思いました。〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズの比較宗教学者のパートの物語の亜種としても読めそうですしね。

 

あと、〈今日 世界は死んだ .......〉シリーズの中で一番好きなのは、、、迷うところですが、「世界保健機関事務局長」なんだけど、こんなこと、庵野秀明の「巨神兵東京に現る」で言ってたような気がするんだけど、、気のせいかな?

 

でも、シリーズの中でどれが一番好きかって話でふつうに盛り上がれそうで、それもいいですね。

 

そういえば、あの代筆者リストも、シン・ゴジラのエンドロールっぽくない?びっくりしたり「あ〜」ってなるようなキャストや制作協力者・関係者がいる感じ。。。

 

とにかく色んな楽しみ方ができそうです!

 

杉本博司「ロスト・ヒューマン」展は、11月13日まで。

芸術の秋にぴったりの、誰でも楽しめる展覧会だと思います。

まず、展覧会の会場入って度肝ぬくよ!こんなの初めて・・・って人が多いんじゃないかな!

 

www.topmuseum.jp

 

いったらどのパートが好きだったか、お話しましょう。ぜひです。

 

ではまた! 

強め☝︎☝︎な地盤と芸術祭ー 瀬戸内国際芸術祭 2016夏期間

 

夏休み、瀬戸内国際芸術祭にいきました。

2度目の瀬戸内で感じたのは「安定・安心の!瀬戸内国際芸術祭!」ってこと。

(詳しくは⇨ 瀬戸内国際芸術祭 2016)

 

 いまや地域おこしとして定番化しつつある地方の芸術祭、いわゆる地域アートですが、瀬戸内はその元祖といったところ。

草間彌生のカボチャ、大竹伸朗のI♡湯などなど、インスタ映え(SNS映え?)もめっちゃするから、おしゃれ国内旅行スポットとしても確立しつつある気がします。

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今回わたしは去年行った越後妻有の芸術祭と終始比べてしまい、今美術界隈で話題の「地域アート」も一括りにはできないなあと感じました。

地域アートって越後妻有トリエンナーレくらいしか行ったことないんですけど、結構対称的だったように感じました。

 

瀬戸内国際芸術祭に安定と安心をもたらしているのは、なんと言っても瀬戸内の島々の「強さ」によるところが大きいと思います。

 

長い歴史を持つ醤油製造、日本一の生産を誇るオリーブ、(センバツ出場の)小豆島高校、映画「二十四の瞳」映画村、、などなど。

小豆島は強い産業、観光を持っています。確かに人は少なかったけれども、美術にすがる必要などないように見えて、そういうしっかりとした強い地盤に支えられた美術、それを見る体験の安定感を感じました。

 

過疎地域を活性化させるためのアートツーリズムには、その地方都市をめぐるセンチメンタルな事情がつきまといがちですが、私が滞在した小豆島では特に、センチさは感じられなかった。

 

小豆島周辺の、今回訪れた直島、豊島、以前訪れた犬島などの島には、その島の名を冠したハードな美術館が立っていたり、一定以上の評価を得ている作品が恒久的に展示されるなど、強気な美術館があります。

 

例えば、越後妻有はハードな美術館らしい建物は1つしかなかったし、(頑張って数えても2つ、、、?)、それ以外はほとんど、家主を失った空き家や廃校で、思い出や人の影とかを否応なくまとってしまうソフト的な機能を持つ場所・地盤でした。

 生活の記憶が残る場所にアーティストも触発されるのでしょうか、センチメンタル、むしろ肝試し?みたいな作品や空間も多かった。

 

越後妻有アートトリエンナーレ『大地の芸術祭』 - おとといまでの私にわからせるためのブログ

 

文字通りそれらはソフト〜な地盤なので、不安定で、芸術作品の足場としても、芸術作品を見るわたしたちの足場としても弱くて、芸術作品を見ているのかどうかわからなくなったり、作品が場の持つ雰囲気に飲まれてしまっているような気がしました。

 

f:id:yzgz:20160914093400j:image(かろうじて残っていた写真:塩田千春の古民家を改装した作品)

 

一方、 産業や観光地の丈夫な地盤を持つ強い場所である小豆島は、美術を見る足場がしっかりと用意されていると感じました。

美術作品自体にも余裕があって、鑑賞する側の自由が担保されているかんじ。(もちろん、すべての作品がそうだというわけじゃありません!)

 

過疎による廃校、空き家を使った作品にはどうしてもそれ以上の読み方が難しくて、鑑賞の幅が狭まってしまって、批評のしようが無い。

 

それは例えば、自分が上司の子供のピアノの発表会に行ったとして、演奏がもしド下手でも演奏が成立していなかったとしても、なんも言えねぇ、、、な、感じではないでしょうか。

その地域の人たちの苦悩そのものに立脚した作品について、何か感想が言えるんだろうか?地域アートにはそういう、上司の子供的な無邪気さと圧力があるのは確かです。

更に、それが過疎の問題となると、うまい、へた、はともかく、好きも嫌いも許されなくなる。

 

瀬戸内はそういうぬかるみのような、何の感想も立たない場所ではないところが、わたしは好きです。作品を、親戚の子供の発表会くらいの距離感で自由に鑑賞して、物言える雰囲気がある。

 

しかしそれは、悪く言うと、アートを見るための地盤がコンクリートで固められているようでもあります。

 それがどういうことなのか、というと、ほとんど東京のようだということなのです。

(実際、現地で案内をしていた人たちは都内の美大生も多かったみたい)

 

東京とか、ニューヨークとか、ロンドンのような大きな安定した都市にある、堂々としている美術館や作品の置き場として、瀬戸内が東京的アートの植民地みたいにされちゃっている、とも言えるかもしれません。

 

地域の名前を冠してるからって、なにもそんなにズブズブの関係にならないでいいじゃないか、と去年、越後妻有で去年思ったことに対して、

瀬戸内は、地域とアートがズブズブにならないバランスで成立していた、とわたしは思ったのですが、もしかすると、地方で芸術祭をやる以上、ズブズブの関係になる方が望ましいのかもしれない。。。

 

いまや地域アートは日本の現代美術と地方創生を担う存在ですから、今後も増えるだろうし、更に議論も重ねられていくことでしょう。 

 

地域アート――美学/制度/日本

地域アート――美学/制度/日本

 

 

 

あ、そういえば、島の美術館ではよく「静寂も作品ですので」とか言われたけど、話しながら見たほうがおもしろいのにな。。。うるさくするのはよくないけど、「静寂も作品」って脅しっぽくてなんか窮屈でした。

 

(ここは確かに静かにみたいけど↓)

 https://www.instagram.com/p/BJg7MIFBoi0aegPfytCxx0_MMdb1DpHdC_5HEs0/

 

あと、えらく感動したのは、片付けようがないくらい星が散らかっちゃってる星空!!天の川とか見たのいつぶりだー!という感じでした。

しかもそのまま視線を落とすと波打ち際に青く光るくらげ・・・!

アート関係ないけど(笑)きれいだったな〜。

 

最後の写真は、小豆島で泊まった小豆島国際ホテルでのバーベキューの様子。

ケツメイシとか流れててエモかったです。

 

https://www.instagram.com/p/BJh2XqKhsqpbLoW-VpnYer0hWn2Sx8BIy36wUg0/

 

では!

 

写真の表面張力 - トーマス・ルフ展@国立近代美術館

 

ちかごろの写真は、「もう写真じゃないじゃないか!」と言わせることが目的なのだといっても全く過言ではないと思います。

 久しぶりに写真特集をしている美術手帖には、あの、わたしたちが知っている「写真」から遠く離れ、それでもなお写真と名乗っている作品が数多く紹介されているのですが、今回のトーマス・ルフ展と合わせておすすめしたいです。

 

美術手帖 2016年9月号

美術手帖 2016年9月号

 

 

この特集に登場する写真は、まさにギリギリ「#photograph」。

タグを付けて写っているものを主張するインスタグラムの写真みたいに、作品自体がこれは「写真である!」と名乗っているみたいです。

 そして、紹介されている写真家・アーティストたちはまさに、「写真(という概念)を拡張している」といえます。

 

トーマス・ルフは、そんな、「写真を拡張する」写真家たちの先頭に立ちながらも、同時に「写真であること」をとどめようとし、とどまろうとしている写真家なのだなあと、今回の展覧会を見て感じました。

 

f:id:yzgz:20160907174807j:plain 〈Portrats〉

 

展示室内に入って真っ先に目に入る大きなポートレイトのシリーズは、彼の代表作であり、その後の現代写真の方向性を定めた一作とも言える作品です。

この作品にまつわるエピソードが展覧会で紹介されていたので、引用します。

 

写されているのはルフの友人たちだ。当初このシリーズは、24×18cmという常識的なサイズのプリントで発表された。その展示を見た友人たちは「これは誰それだ」と、写された人物を話題にしたが、次に巨大に引き伸ばした作品を展示すると、彼らは作品の前で「これは誰それの巨大な写真だ」と言うようになったという。つまり人々は写真を見ているということに自覚的になった、ということだ。

 

わたしもルフの写真をみながら誰かとおしゃべりができたらもっと楽しかっただろうに!と思いました。

そして、このエピソードを読んで思い出したのは、最近行った別の写真展「アルバレス・ブラボ写真展 - 静かなる光と時」で出会ったブラボ氏によるこんな言葉です。

 

どの芸術にも共通する詩情は、

シンプルな手立てを通して得られる、複雑な現象の表現です。

そうした手立ては自らに正直で、おのれの限界にも忠実です。

しかしひとたび情熱が注がれ、静けさの中で口を開くと、雄弁になるのです。

by アルバレス・ブラボ

f:id:yzgz:20160907190334j:plain (これはブラボの作品です)

 

 

ご覧の通り、ブラボとルフは全く、まっったくタイプの違う写真家ですが、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」点では、おなじ。。

というより、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」芸術こそが素晴らしく、それこそが芸術の素晴らしさなのだ!と、ブラボに言葉を与えてもらい、気づかせてもらったように感じています。

 

「写真を大きくする」そのシンプルな手立てのみで、「写真が写真であること」、「写真とはなにか?」そんな問いを立てることができるルフはやっぱり天才!ラブ!

 

 ポートレイトのシリーズや建築写真のシリーズなど、この頃の写真は「写真」という体裁を整えながらも、それまでの多くの写真芸術(それこそブラボたち)が発してこなかったタイプの「写真とはなにか?」というメッセージを発しています。

 そして、彼の写真は、「絵とはなにか?」という自問によって発展した美術の歴史をなぞるように写真の歴史を更新していきます。

 

 

なかでも、「jpeg」シリーズは、印象派絵画を一歩進めたちょっと科学ヲタ系画家たちによる点描画を思わせながらも、現代社会の画像をめぐる実情までも取り込んでいます。

f:id:yzgz:20160907182707j:plain 〈jpeg

 

私もとくに好きなシリーズです。

 

  f:id:yzgz:20160907183016j:plain

 

印象派の画家たちは、細かな筆致の重なりの中で白や、白に近い明るい色の絵の具を使って、「きらめき」のある世界を映し出しました。

もちろん「きらめき」はそれまでの画家にも見えていたはずですし、こんな風に見える風景もあったはずだと思いますが、当たり前にきらめいていた世界を「こんなにきらめいているよ」と図示したという意味で画期的だったんじゃないかな、と思います。

 

ですが、彼らの絵を見て「なにも見えない」「なにも書かれていない」「汚い」と評した批評家がいたように、わたしたちもルフのjpegシリーズのような画像を、何かの画像を検索する途中で見つけたら、「つかえない」「荒い」「汚い」というに違いありません。

 わたしたちは、デジタルの登場によってこの新しい映像(画像)の世界の中に、当たり前に生きていて、モニターによって写真を見るという体験を構成するビットにどんどん出会いにくくなっているんですよね。

 さらに、この荒れてビットでガギガギの写真が大きく引き伸ばされていることは、まさに、この写真がネット上を駆け巡って、何も感じられなくなるほどに拡散されている様を写しているようです。

 

そして彼の写真はもっと抽象的になっていき、はじめにあったポートレイトのように、「これは◯◯だ」と示すような具体的な像を示さなくなっていきます。

 

f:id:yzgz:20160907192056j:plain 〈r.phg.03〉

 

この作品をはじめ、彼の抽象写真は、元の画像がわからなくなるほど重ねられた加工や、仮想暗室だとか、、、、写真というコップに可能性の液体をこれでもか!と注ぎこむような感じですね。

 

 

しかし一転、2014年になると写真に像が戻ってきています。(〈negative〉や〈press++〉にて。)

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(写真が反転されると、被写体の性別もわからなくなる・・・)

(この人が男性なの、びっくりしちゃった)

 

私は彼の写真に像が戻ったことに、彼の写真に対する表面張力のようなものを感じます。

決してこぼれ落ちることなく、コップ(写真)のふちにとどまる力のようなものです。めいっぱい写真の可能性を広げながらも、写真を写真以外のなにかにすることなく、通り過ぎた写真であったセピア写真に新しい可能性を見出す試み。

 

 

 最後に、今回、一番感激した作品〈mars〉シリーズを紹介します。

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もちろんこれはどう見ても写真ですが、決定的に写真を進歩させていると感じました!

 

わたしは、写真について「過去のある1点を写す、から、制作段階のあらゆる選択を残すメディアになっていってるなー」なんて、美術手帖をはじめ、いろいろ読んだり見たりしながら考えていたのですが、ルフによる、このからっとした、軽やかでハッピーな裏切り!テンションブチ上げです。

そして、赤青3Dメガネにも大興奮。

 写真が未来を写すという、なんとも新鮮で、いつくるかわからない未来に親近感がもてる作品。

ああ写真ってまだまだおもしろいなあ!と、とっても嬉しくなりました。 

 

この秋は、写真展が多くて大忙し。

新しくなった都写美で杉本博司大先生(大好き)、原美術館で篠山エロ紀信などなど。。。

 国立近代美術館で、開催中のトーマス・ルフ展、グッズも充実してましたし、丁寧な解説のおかげでよく知らなくても楽しめるのではないでしょうか。

 ぜひぜひ足を運んでみてください!

www.momat.go.jp

 

イケてる特設ページも↓ (インタビューも読めるみたいです)

thomasruff.jp

 

写真撮影可なので、インスタ映えのおしゃれスポット間違ねーぜ!

 

また長くなっちゃったな〜〜〜

ぜひです。