おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

メシマズ写真的絵画の快楽 - 「五木田智央 PEEK A BOO」展について

 

こんにちは!

今日はオペラシティで開催中の「五木田智央 PPEKABOO 」展についてです!

 

さて、この五木田さんの絵といえば、テイトウワのアルバムアートワークなんかにも使用されたりしているし、ファッションや音楽などアート以外のさまざまなカルチャーと親和性があって、とにかくおしゃれ。

写真っぽいけど絵画だとわかる、現代的でキャッチー。かつシュールで少し不気味な感じ。五木田さんのイラストのTシャツとか着てたらちょっと一目置かれそうなグッド・サブカルチャー感があります。

 

さて、そんな五木田さんの個展「PEEK A BOO」展について、美術批評家の黒瀬陽平さんが東京新聞に寄せた展評が話題です。

 

 

とても厳しい意見を寄せていますよね。

だけど、実はわたしも今回の展覧会に、五木田さんのことを理論的な後ろ盾まで含めて実感し理解することを期待していたので、実際、展覧会を見たことによって五木田さんに関する理解が深まった、とは言えなくて、ちょっと不完全燃焼でした。

展示を見に行く時って、自分が発見したい気持ちもあるけど、やっぱりなんらかの知見が示されたものを見に行ってるところもあるからね〜。

 

展覧会のなかでネオ・エクスプレッショニズムとか、リヒターとかからの影響やそれをどのように乗り越えているかとか、そういうことはやっぱりわからなかったし、確かにおしゃれな感じはするけど、それが美術史的になにかを乗り越えたのかっていうとわからなかった。(絵画をみるということはそうした歴史や文脈からの影響を考えることでもあります。)

「見た目にも超かっこいいけど、実は論理的にここがいいんですよ!」という強い意思のようなものが見えなかった。

 

 

じゃあおまえは何書くねん書いてみろやって話ですが、

今日は、「写真的」とも言われる五木田さんの絵画について、写真(教育)の近くにいる人間として、どんなふうに楽しめるかなーということを考えていきたいと思います!

 

さて、ちょっと前に「メシマズ写真」がネット上で話題になったことがありました。

被写体となった料理じっさいは多分おいしいかもしれないんだけど、写真がなんかどうもうまくいかなくてめっちゃマズそうに見える....ってやつですね。

 

matome.naver.jp

 

五木田展を見ていて思ったのは、「メシマズ」ならぬ「女マズ写真の絵画」って感じがするなってこと。(イケてないって意味じゃないです)

 

突然ですが、今回の展覧会のなかには、これからぶつかり稽古がはじまるんだな、という感じの絵画が何点かありましたよね。(恋人や配偶者じゃないひととの性的な接触のことをぶつかり稽古と呼んでいました、大学生のとき。)

それは男性から女性を見る視点で描かれていたり、第三者としてそういうことが始まりそうなふたりを見つめる視点(なにかのワンシーン?)だったりしていました。

だけど、なんか、ドキドキもしないし、グッとこないし、ムードとかもあんまり感じない...。

 

わたしは男の子じゃないのでわかりませんが、例えば

いま、この目の前の女の人との、肉感たっぷりで濃厚なぶつかり稽古が待っているのはわかっているけど、ぶっちゃけそこまで好みじゃない・・けど、もうこの引くに引けない状況、わかっちゃいたけど午前2時、終電なし、よし、よし、腹をくくる、よし、、はっけよーいのこった!

 

みたいな、ちょっとゲンナリする、萎え〜的シチュエーションを想像してしまいました。。。。萎え〜。(たとえば、「try me」という作品とか。)

それくらい、女性たちが全然魅力的に描かれていないのです。

女性をぜんぜん魅力的じゃなく描いていることは、男性のこうあってほしい女性像の押し付けとかも感じないので、一緒にげんなりできて、それはそれで楽しく鑑賞できたけど。

 

じゃあ、なんでこんなにこの女の人たちはマズそうに見えるのか。

 

ここでメシマズ写真を思いだしてください。

わたしは、メシマズ写真のひとつの特徴として、至近距離でフラッシュをたいちゃったことによって、被写体のお食事がのっぺりしたり、色味が正しく出なかったりすることがあげられると思うのですが、まさに五木田さんの絵は、ブス的光源、ブス的ライティングによって描かれているように見えます。色はモノクロだからそりゃそうだけど。

 

例えばこれ。

 

f:id:yzgz:20180611075956j:plain ヒラリー?

 

光の方向や当たり方を見ると、この女性の前には暖炉のような低い位置に灯りがあって、やや下方向からのぼんやりとした光源に照らされている感じがします。

ポートレートを撮影する場合、女性を美しくしようと思ったら、一番やらないのがこの光の当て方です。

下から光を当てるとうらめしや〜感も出るし、一気におブスな印象になるから。

これがもし色のある絵だったら、暖色のおだやかな感じの灯りになるんだろうけど、モノクロの絵だと、そういうふうにもならないし、なおさら女マズ感が漂ってくる気がします。

もちろん女性を描いた絵以外にも、写ルンですのフラッシュ使ったのかな?みたいな安価な強い光で照らされたメシマズ的光源を感じる作品が多々あったように感じました。

 

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それから、メシマズ感のほかに感じた印象は、悪夢みたいだということ。

汗だくで目が醒めるような嫌〜な夢みたい。目が覚めたそのときの頭のなかにカメラをぶちこんで写真にとったらこんなふうになりそうだな、という気がします。

 

 

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あと、夢によくある登場人物がわからなくなっちゃった感じもあります。

だから、逆にわたしの知ってる誰かかも?感もある。

 

f:id:yzgz:20180611085839j:plain 田中真紀子

 

わたしはこれらの作品を、単なる「怖い絵」にとどまらない絵画作品として語る可能性としては、「悪夢を写真に撮ったような絵」に見えること、つまり写真というほかのメディアとの関わりによるところで考えていくことかな、と思いました。

 

彼の作品が写真的に見えるのは、豊かなグレーのグラデーションによる陰影の描き方によるとわたしは考えています。

これは、「怪物ような植物」という作品。

 

f:id:yzgz:20180611092655j:plain「怪物のような植物」

 

他の、人物を描いた写真とは異なり、メシマズ感は抑えめで、わたしはメイプルソープの植物の写真を思い出しました。

 

f:id:yzgz:20180611092921j:plain 怪物ぽい。

 

圧倒的階調の美しさを誇るメイプルソープの写真を思い出させられたってことは、そのグラデーションの豊かさが、五木田さんの絵画に写真らしさを与えている大きな要素のひとつなのかもしれません。

かといって、そのグラデーションが全面に展開されていないのも、五木田さんのおしゃれな部分なのでしょう。

 

わたしも、五木田さんの絵を見ていて、グラデーションが唐突にぶった切られる大胆な線にはウキウキしました。

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例えばこの絵のおっぱいの部分(なんでこれしか写真撮らなかったんだろ)、これくらいの遠目の距離で見るとすごく美しい陰影。もしかしたらこの人美女かも?くらいの感じがする。

で、そのおっぱい部分をクローズアップすると、

 

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 ものすごく唐突な線で、着ている服の存在感とプリントとおっぱいの立体感を示すグラデーションが対比されています。

こういう線や塗りの違いは近づいて見たり、遠くからみたりして改めてわかることでもあるから、そういう行ったり来たりの運動は絵を見るときの、素朴だけど楽しい経験です。

 

写真にはありえない「塗り」やマチエール、イラレやフォトショで作られたのではない”人力”グラデーションに着目して見ると、写真らしいけど写真じゃない、絵画の楽しみを実感できるかも?

  

五木田智央 PEEKABOO|東京オペラシティアートギャラリー

 

6月24日(日)までです!

またギリギリになっちゃった....!

ぜひです!!

インターネットのある世界を生きるわたしたちと、自由についての物語-「ハロー・ワールド」展について

こんにちは!

今日は、水戸芸術館の「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展について。

もう展覧会も終わってしまうので(5月6日終了)ほとんど自分にわからせるためにですが。。書いておきます。。。。

 

わたし、この1月に運転免許を取得し、今回この展示を見に行くために初心者マークを携えて、はじめての長距離ドライブをぶっ飛ばしてきました。

何度かの臨死体験を経て、渾身のハロー・ワールド。

生きててよかったです。

 

さて、展覧会タイトルの「ハロー・ワールド」は、コンピューターなどのプログラミングが正しく運用されているか確かめるために用いられる最初のチュートリアルなんだそう。

Hello world - Wikipedia

試しにお手持ちのsiriに「ハロー・ワールド」と話しかけると、彼(or彼女)がその最初のチュートリアルのプログラム言語で答えてくれます。

知能をもった機械と世界の出会い、なんかわくわくしちゃうよね!

 

今回のブログのタイトルは

「インターネットのある世界を生きるわたしたちと、自由についての物語」とつけました。

これは、わたしがこの「ハロー・ワールド」展を「自由」をめぐる物語のようだなと感じたからです。

 

今回の展覧会は8組のアーティストによって構成されていて、展覧会を進むに連れて、わたしたちがインターネットによって得る自由や希望が、インターネットによる支配や自由の搾取にだんだんと移り変わっていったような感じがします。

 

はじめは、セシル・B・エヴァンス《溢れだした》という、ペッパーくんやアイボなどのロボットを使った演劇的なインスタレーション

「リバティー」の名前を持つ超人気者・スーパーインフルエンサーのAIのyoutuberの死の噂が流れて、ファンであるペッパー君たちが右往左往する、というストーリーです。

このストーリーのなかでは実際はリバティーは生きているのですが、単なる噂や憶測によってひとびと(ここではペッパー君)が混乱し、騒ぎになります。この演劇で起こっていることは、実際のわたしたちの世界でも、噂やデマなどの拡散力がインターネットによって格段にあがっていること、そしてそうしたデマなどにわたしたちが振り回されることを示してくれています。

そして、印象深かったのは、この演劇の最後。

スーパー人気者インフルエンサーのリバティーは、「わたしは死んでいない」、「リバティー(自由)は死なない」と宣言し、幕を下ろすのです。

 

そうして、わたしはこの宣言をハロー・ワールド展を貫くひとつのテーマととらえて、この展覧会では、それぞれの作品における自由と支配とのせめぎ合いについて考えることにしました。

 

続く、小林健の写真作品は、GUI(グラフィックユーザーインターフェース)ネイティブの感覚を視覚化した、写真(ツール)を通して世界に「触れる」作品です。

 

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Kenta Cobayash 小林健太

 

わたしたちは、テクノロジーによって世界に触れる自由を持つようになりました。

画面のうえで指を2本合わせたところから広げると画面が拡大される、とか、すでにわたしたちの中にはそういう機械と付き合う感覚がしっかりと染み込んでいます。

この展覧会における小林健太の作品は、わたしたちと世界の間には、テクノロジーがあって、そのテクノロジーによって世界に触れられるようになった感覚、そして、テクノロジーがもたらした新しい自由を提示しているようでした。

 

このように、GUIを自由に操る能力を手にし、個人が発信者になれる場を獲得したことはインターネットが与えた新しい自由のひとつかも。

デヴィッド・ブランディチュートリアル:滅亡に関するビデオの作り方》では、youtubeにアップされているそれらしい既成の動画とTEDのトーク音声を組み合わせて、サクサクと世界滅亡に関するショートムービーを製作する様子が示されています。

ブランディは「こんな感じでいっかなー、ここでこうしまーす、ちょちょいのちょーい」くらいの感じで制作を進めていくのですが、実際に完成した動画に立ち込める危機感(と違和感)とは対照的に、お茶の子さいさい感がすごい。

手早くそれらしい動画を作れること、たくさーんのひとびとにそれを発信することができること…この作品で示されている自由には、少し不穏な雰囲気が立ち込めています。

 

 

このように、ここまではインターネットやテクノロジーが提供してくれた「自由」が描かれてきましたが、ヒト・シュタイエル《他人から身を隠す方法》が転換点となり、展覧会はインターネットとその向こうにいる大きな存在が、わたしたちの自由を脅かす可能性を提示していきます。

 

ヒト・シュタイエルはこの映像作品のなかで、爆撃機がミサイルなどを撃ち落とす際に照準を合わせるためのキャリブレーションターゲットのモチーフ(幾何学模様)を象徴的に繰り返し登場させています。

多分小学生のときに習ったことだった気がしますが、すべての技術は戦争によって発展する、ということを、この作品を見て、そうでしたそうでした、と思い出しました。

この作品では、デジタル技術によってわたしたちの生命が首根っこつかまれてるってことが示されます。

タイトルの通り、こうしたデジタル技術によるターゲットの捕捉から逃れるためには、わたしたちはデジタル技術のなかから消失しなくてはならないのです。

この前の作品までに見られた、テクノロジーの民主化による自由は、ほとんど幻想だったかのように思えてきます。

 

さらに、谷口暁彦の作品では、デジタル技術はわたしたちを民主的に強化してくれる味方ではないと確信せざるをえません。

監視カメラのコントロールができちゃうURLにアクセスできちゃったので、カメラを1カットずつずらしながらパノラマ撮影したちゃったよ、という作品。

監視カメラがいたるところに設置され、そのアクセスが解放されている状態は、誰もがオーウェルの『1984年』のビックブラザーのような存在になれる可能性もひらかれています(=ある意味自由)。

展覧会も後半になりこの作品にたどり着くと、テクノロジーは「支配する側」にとって都合のよい自由を発明し提供したのだ、という気づきとともに、不穏を通り越して、陰惨な気持ちになってきます。

 

続くサイモン・デニーによるブロックチェーンのPR映像では、「ブロックチェーン最高!」「ビットコインまじイケてる!」「これぞインターネットがもたらす民主化!」「国ごとの貨幣に代わる!」「脱・中央集権化!!」ってかんじでブロックチェーンのよいところをこれでもか!!と宣伝しています。

ですが、インターネットの世界においてGoogleに権力・利益・情報が集中しているように、こうしたブロックチェーンの技術も、実際のところはそれを開発し運用するひとびとに利権が集中する「再・中央集権化」に過ぎないことは、目に見えています。

つまり、インターネットは自由を解放し、民主化を促進させる、と思いきや、インターネット以前よりも大きく(かつ透明な)支配勢力を生み出しているのです。。わたしたちの自由、、、どこへ、、、、?

 

最後の展示室は、レイチェル・マクリーンの映像作品《大切なのは中身》です。

まずすでにタイトルが超皮肉っぽいですが、SNSの承認欲求を中心に、インターネットがひとびとや社会を蝕む様子をポップ☆グロ☆に提示しています。

鼻のない黄色い肌をした登場人物の造形は、絵文字の顔によったものなんだろうけど、わたし個人的には夢に出そうなくらい...ニガテ…

最初はキラキラ素敵なインスタ女子!だった主人公は、SNS(や荒らし)に翻弄されてぶくぶく太り、ぼろぼろになっていきます。「大切なのは中身」という言葉が切実ながらも虚しく響きます。。

 

この展覧会を貫くストーリーをなぞるかのような主人公の没落は、わたしたちが展覧会を見始めた時に抱いていた牧歌的なテクノロジーやインターネットへの希望、それらがもたらす自由への期待をサクサクと切り裂いていき、そして気づけばインターネットのある世界を生きるわたしたちの自由については、軽い絶望とともに諦めざるを得ない気分に。

 

この最後の展示室を抜けると、外から日差しが入る心安らぐ空間。

マクリーンの映像でまあまあ疲れて、やっとぬけたぜーと思ってベンチに座ると、暖炉のような揺れる焚き火が。

もちろん焚き火は映像で、エキソニモの作品です。

アメリカ(だったかな)には、テレビを(精神的な)暖炉の代わりにするために、24時間焚き火の映像が流れるチャンネルがあるそう。(そのチャンネルおもしろそう)

さて、エキソニモが作った焚き火の映像ですがよくよく見るとキーボードやマウス、モニターなどを燃やす焚き火の映像なんですね。。。人間の自由と文明の敗北を感じました。。。。終末感。。。

 

さて、ここでこの展覧会は終わりですが、元気を出して展示をもう1周しようとすると、再びペッパーくんが出迎えてくれ、さきほどの焚き火の映像では火葬されているようにも見えた「インターネットのある世界」でわたしたちが持てる「自由」について、「リバティー」ちゃんが不死を宣言し、勇気を与えてくれました!ふぅ、よかった。(また最後までしっかり見ると落ち込むから注意)

 

さて、6日で終わりの展覧会ですが、こんな豪華メンツを一挙に見られる展覧会は二度とないんじゃないかなーと思うので、水戸までデス☆ドライブした甲斐がありました。

 

この展覧会に作品を出しているアーティストはいまのアート・ワールドのトップを走っていたり、新進気鋭としてブイブイ言わせていたり、元祖!デジタル・メディアを使ったアーティスト!だったりと、本当に最重要のひとびとばかりです。

 

水戸芸術館|美術|ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて

 

ぜひ他の展覧会でも「ハロー・ワールド」展の出展アーティストの作品を見る機会があればチェックして見てください!

備忘録でした☆(もっと早めに書く努力します)

 

今を生きる写真家と踊らない都市 - 「写真都市展」について。

こんにちは。

 

きょうは、21_21 design sightで開催中の「写真都市展 —ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち—」展についてです!

 

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あれいま何世紀だっけ?と思っちゃったんですけど、記憶違いじゃなければいまは21世紀。なので、「一歩先行く」的な用途での「22世紀」なんでしょうね。

 

今回の展覧会は、ウィリアム・クラインという「都市写真」の大巨匠を出発点にして、写真を通した新しい(都市への)アプローチを見ていく写真展です。

 つまり、今回の写真展の中心は、後者。「22世紀を生きる写真家たち」です。

「22世紀」っていうの、どうしても気に入らないんだけどさ。。

 

せっかくなので、クラインという大巨匠が撮影した都市と、いま、写真というアプローチで都市に迫ることについて考えてみたいとおもいます。

 

ウィリアム・クラインの写真を初めて見たのは、多分大学1年生の時、授業のなかでだった気がするのですが、おしゃれー、センスいいーと思った覚えがあります。

 

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確か同時に、ファッション写真の分野でも活躍した、という解説もうけてそれにも合点した(気がする)。

 

粗暴なインパクトで勝負しているように見えながらも実は上品でセンスがいいかんじで、(概念としての)銀座のがっつり系ラーメン?のような。

どろどろに濃いけど洗練された出汁がうまい、みたいな….....

アレブレボケの手法が煩雑なかんじを出しながらも、構図やポーズがとっても清潔だからなのか、そんな感じがします。

 

 

さて、今回、展覧会で改めてウィリアム・クラインの写真をまじまじと見て思ったのは、ダンスの写真みたいだな、ということ。

確かに東京で撮影されたシリーズは実際に舞踏家のひとたちを撮っているのでそりゃそーだって話なのですがそれ以外の写真についても、わたしはダンス写真らしさ、を見たのです…

 

先日、お仕事で膨大な数のダンスの写真から良い写真をセレクトしていて、それを見ていたときの感覚をクラインの写真に覚えました。

そのとき、ダンスの写真を見ていて思ったことは、ダンスは無限回数のポーズの連続だということ。

 もちろん、ここがキメポーズ!ってところが、多くのダンスにはあると思うのですが、ダンスは、写真にすることによってそこに至るまでのからだの動き、動きと動きのあいだの動きにも意識や意図が見えるようになるので、ダンスを撮った写真を見るのは楽しい経験でした。

 

じゃあクラインの写真がどう「ダンス」なのか?というと、ウィリアム・クラインが都市を撮ると、写ったひとの無意識やおそらく演出のそとにまで繊細な意識が宿っているみたいに見えてくる気がするから!

 

動きと動きの間の動きが写真で見えた時の「あ、見えた」あるいは「見ちゃった」の感じが、クラインの撮った都市にはあります。

 

つまり彼が撮ると「都市写真」が「ダンス写真」になる。

そういう意味で彼は「都市を踊らせる」写真家なんて言えるのかも?

ふ〜かっこい〜〜

 

 

と、ここまでクラインについて考えてきましたが、都市を踊らせる大巨匠と対になって紹介されている22世紀の写真家たちは都市とどう関わり合っていたのでしょう?

 

展覧会の「22世紀」セクションの写真を見て印象的だったのは、クラインの写真にあった「踊り」的要素がほとんどゼロだった、ということです。

 

ウィリアム・クラインが都市を踊らせるとき、それは写真によって達成されます。

彼の写真が、都市を空間としてではなくて、断片的な瞬間として輝やかせている一方、「22世紀」の写真は、「瞬間」とは全く違う時間のなかで都市へアプローチしていきます。

 

西野壮平や、安田佐智種の作品(特に「みち(未知の地」)は、複数回のシャッター、撮影者の物理的な移動、それらの統合によって作品の構造の中に複数の時間と空間を持ち合わせています。

 

須藤絢乃の作品にも、

1.過去に行方不明になった人(の写真)

2.カメラのまえでその写真になりきる私

という複数の時勢や人称が含まれています。

彼女の写真を、「都市」と結びつけるのはわたしには難しいんだけど。。

 

彼らとクラインとの違いで考えるならば、「22世紀」の写真には「あ、見えた」とか「見ちゃった」という感じはありません。彼らの写真を見た感じって、都市の「観察」に近いかも。

 

彼の写真を「見る」行為は、瞬間の「あ、見えた」的発見とはちがって、「観察」のように持続的に発見が続いていく感じがあります。

 

そういう「22世紀」の写真は都市を踊らせることなく、写真で都市の持つ空間とか時間を積み重ねて、組み立てて、写真の中で蠢めき、息づく都市をふたたび作り出しているのです。

 

このように、この展覧会においては、写真が空間や時間を圧縮するだけではなく、空間や時間を組み立てて、多元的な都市の実像に近づいていく方法のひとつになっていたんですね。

 

ところで。

先にややじゃっっかんふれた「22世紀」問題にふれておきます。

わたしが「22世紀」のなにが気に入っていないか、というと、今回「22世紀」の写真家と呼ばれた彼らを、特異性のある未来志向の写真家あるいはアーティストとして扱うことにぜーんぜん納得がいかないからです。

だって、彼らは紛れもなくいま、この現代、21世紀に生きているし(22世紀になったときにも生きているかもしれないけど)、彼らの写真を通した都市へのアプローチをいつか必ずくる「未来」の表現と位置づける写真観、ノスタルジックすぎませんか?何時代?て感じ。 

 

クラインの写真は、いま見てもフレッシュに目が喜ぶ感覚がありますが、あれが過去のものであることは明確だし、(かといって古いから悪いとも思わないけど)

クラインとは全く別の仕方で「写真する」のが2018年の写真家なのだとわたしは思っていて、そこにこそ、いま、まさにこの「今」の写真にこそわたしが写真のおもしろみと感じるものがあります。

 

「現在」や「現代」や「写真」という言葉には、複数の見方があって自分をどこに位置づけるのかはもちろん自由ですが、わたしはどうも、彼らを「22世紀を生きているようだ!未来志向だ!」として賛美するよりもっとよい判断のしかたがあるのではないかと思ってしまいます。

 

つらつらつらつら言ってますけど、写真のいろいろな可能性を見られる楽しい展覧会でした!(まじで)

6月まで開催しているようですので、ぜひです!

 

www.2121designsight.jp

 

よかったら、みなさんのこの展覧会の感想もききたいなあ!

 

 

あと、さいごのさいごに...

 

今週、先週と、荒木経惟の件で、写真の世界は大変動揺していますね。

せっかくいまブログを書くのにこのことを無視するのもいやだったので、ひとこと。

me too運動を巡るいろいろな人の意見に傷ついたり鼓舞されたり、自分のなかのダブルスタンダードに反省しつつも、わたしは私写真の終わりを支持します。

リクエストをいただいたので、近いうちにこのことをまた書くかもしれません…

 

ではまた!

「現象としての写真」をアップデートする -「most liked photo」について 

今回、作品を作って発表する機会に恵まれたので、4億年ぶりに作品をつくってみました!(助手展にだしてます)

 

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わたしが出展している「most liked photo」という作品は、instagramの画面をキャプチャーし、顔はめパネルにした作品です。

 

今作「most liked photo」では、現象としての写真の、現代の姿について考ることを試みています。

 

ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をはじめ、写真は現象としてもたびたび論じられてきた表現メディアです。

『複製...』では写真が絵画や彫刻などの芸術作品が持つ「アウラ」を奪い去ってしまう現象について論じられています。

ここで論じられているのは写真の登場と普及による影響ですが、その後も写真は技術革新によって、時代の節を作るように、時の文化や産業に大きく影響してきたのです。

このように写真は「もの」としてだけでなく「こと」として、理論的に扱われてきました。

 

さて、現代の写真の「こと」を考えるとき、SNSソーシャルネットワークサービス)での写真の使用は避けることができないトピックだと思います。

とりわけ、Instagramは写真を中心にしたSNSで、写真の作られ方から受容のされかたまでを大きく変えました。いまやインスタは多くの人の写真を撮る動機でもあり、目的でもあり、発表の場でありながら撮影・製作の場でもあります。

ところで、いまどきの中高生は、スマホで写真を撮ることを、撮った写真をインスタにあげなくても、「インスタする」と言うそうな。動詞にまでなっているのですね。わたしなんかついつい「写メ撮る」とか言っちゃってそのたびに世代とかいろいろ...感じてしまいます...

 

こんな感じでわたしは以前から、instagramが写真を変えることや、instagramが変えた写真がわたしたちの生活や暮らしを変えることについてすごく興味があったので、このブログのなかでも、instagramについて書いたことがあります。

 

yzgz.hatenablog.com

 

もう3年前になるこの記事でわたしは、インスタグラムは新しいファッションのかたちなのだ!と言っています。

要約すると、何を着る?よりも、だれと、どこで、なにをしたか?がいまのファッションなのであり、それを表明するツール兼場所としてinstagramは機能している!ということ。インスタグラムは、写真を鎧に変えたのだ!ウォー!と主張しています。

 

今回の作品「most liked photo」では、写真を「こと」として考える方法をアップデートするとともに、instagram(や他のSNS)が可能にした鎧としての写真を、鑑賞者のみなさんにインストールしてもらい、鎧としての写真の姿を目に見えるかたちにすることも試みています。

 

顔をはめても楽しいですが、顔が抜かれた状態もまた鎧としての「写真」が際立つかなとおもうので、思い思いに楽しんでくださると嬉しいです。

(鎧って言うより見た目は盾かも....)

 

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2月19日から25日までです。最終日にはアーティストトークもある模様です。。。

  

短い会期ですが、他の助手さんたちの作品も大変素晴らしいクオリティになってますので、ぜひです!

 

スパーーーク!する!写真的モチーフとの出会いー 石内都「肌理と写真」@横浜美術館

 

ご無沙汰です。

あけましておめでとうございます。

うっかり年を越して、気付いたら1月も終わっててびっくりしてます。

 

今年のはじめに石内都「肌理と写真」を見てきました。

 

yokohama.art.museum

 

石内都(いしうち みやこ)といえば、木村伊兵衛賞ハッセルブラッド国際写真賞、紫綬褒章を受賞していて、この受賞歴にも明らかなように文字通り日本を代表する写真家。

 

今回の展覧会を見ていて思ったことは、石内さんの扱うモチーフ(被写体)って「写真的」!ということ。

写真的ってどゆことー?ですよね。いまから言います。

 

わたしは、初期のモノクロ作品から、近年の遺品や衣服などのシリーズに至るまで、彼女の写真からは、「触れるとかたちが変わってしまうもの」に対する興味(むしろ執着)を感じます。

朽ちたアパートの壁の塗装や、皮膚に残るしわ、衣服や布のしわ、などなど。

石内さんの写真のこういう被写体の選び方を見て、写真的だ、と感じます。難しく言い換えると、彼女は指標(インデックス)的性質のあるものを追っている。

 

たとえば、ベッドにできたシーツのしわは、そこに誰かがいたことを示すものです。

 

しかもそこに残る痕跡はとてもオリジナルだし、似たようなしわはできるかもしれないけど、わたしだけの、今夜だけの寝返りが、翌朝の二度とないしわを生み出すのだと思うと、なんだかしわもロマンチックなものに思えてきちゃう。

 

そしてその「しわ」は、触れたり動いたりすると「かたちが変わってしまう」はかないものです。(とても神経質になればそのシワを撫でたりすることもできたりするけど、超繊細な手つきにならざるを得ません。)

石内さんは、二度とない一瞬を光の痕跡で保存する写真のように、誰かの人生や時間の経過を受け止めて保存したものたちを選んで撮影しているのですね。

 

ロラン・バルトが写真について、「かつて、そこに、あった」を示すものであると述べたように、衣服のシワもまた、なにかが「かつて、そこに、あった」ことを示すもの。と、なると、彼女の写真は超写真的写真ってかんじ。いや痕跡的痕跡?

 

 

ただしそれらが、彼女の場合、彼女が受けた感覚や興味の方向がかなり色濃ーーく反映された写真になっていて、それらを丁寧に保存し、伝達するために撮影する、という感じではなさそうなことも、こうして一挙に彼女の作品を見て強く感じたこと。

 

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たとえば彼女の撮り方は、被写体が静物なのに水平、平行も不安定だし、正対もしません。寄ったり、離れたり、被写体が画面におさまらなかったりもします。

丁寧に「かつて、そこに、あった」ことを保存することが目的なのであれば、こんな撮り方はあまりしないものです。

 

保存していつか伝えることがしたいなら、こんなに客観的でない構図にはならないんじゃないか、と思います。

彼女の写真はとても主観的で、彼女自身の「こう見たい」「ここが見たい」が超露骨。

 

そこに彼女が「写真的」なモチーフに対する純粋な興味に突き動かされて写真を撮っていることを感じ取れるのです。

 

 

さて、彼女のこうした「写真的な」モチーフとの出会いと、モチーフの持つ歴史がスパーーーク!したことで、彼女の国際的な評価をババーン!と高めたのが「ひろしま」のシリーズ。

ひろしま

ひろしま

 

 

今回の展覧会でも、最後の展示室に彼女の集大成的な一作としてデデーンと鎮座していました。

 

ひろしま」シリーズは、広島平和記念資料館に収蔵された原爆の被害者の遺品を撮影した作品です。

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ひろしま」における衣服のシワは、そこに生命があったことを思い出させるし、ほつれや染みや破れた穴を見ると、そこにあった生命が事実として完膚なきまでに打ちのめされて失われたこと、その痕跡が示す明らかさに、物理的に胸が痛くなります。

 

石内さんの持つ衣服やそのしわへの興味と、衣服がまとう歴史の完全な一致が、切実な反戦のメッセージを発しているこの作品は、まさに奇跡の出会いスパーーーーク!!です。

 

 

だけど、 わたしは「ひろしま」を見ていると、被写体が持つ歴史よりも、しわや衣服の素材感など、石内さんの局所的な興味のほうが優っている気がしてしまう。

広島である必要があったのかなー?と。

 

ひろしま」以前の彼女の作品を見ていると、パラパラ落ちる塗装とか、ぼこぼこ、しわしわ、みたいな肌触りのあるもの(つまり肌理!)への純粋な、無邪気な関心が写真に充満しています。

 

だけど、どうも「ひろしま」は、彼女の無邪気で強いモチーフへの関心を鑑賞するには「広島」の歴史とそのイメージが強すぎるし、この写真から「広島」に思いを寄せるには彼女の肌理への執着が強すぎる。

彼女の作品のなかでは、作品と社会(歴史)がつながり大きな広がりを持つようになった意欲作と言えるかもしれないけど、実際のところ、彼女は変わらず自分の興味を探求し続けているんだな、と感じます。

 

実際、こちらの👇インタビューによると、やはり、「ひろしま」は、編集者さんの、「広島」を撮ってみませんか?という話から始まったシリーズのようですね。

www.magazine9.jp

 

石内さんの言葉を読んだり写真を見たりすると、どうやら彼女はカメラを通して被写体と会話をしているようです。無邪気。

それは、きっとこれまでもそうだったんだろうな。

 

彼女がこのインタビューで「わたし自身は広島となんの関係もなかった」という趣旨のことを語っているように、この出会いは偶然だけど、だからこそ尊いとも言えるのかも。あのような強い作品ができるなら。

写真家の興味と被写体が持つ歴史の出会いは奇跡だし、「広島」の恐怖を広く強く伝えて人々の目を開かせる力は、原爆ドームのあの骨組もよりも、もしかすると強いかもしれません。 

 

わたし個人としては、彼女の写真は「ひろしま」以前の、誰かや何かの痕跡の残る「肌理」への純粋な興味に満たされた超写真的写真におもしろさがあると感じていたから、「ひろしま」はなんとなくやや意味が多すぎてしまった感じがしちゃいましたけど、

ひろしま」までの写真的モチーフとの選択、そして、「ひろしま」でのモチーフとの出会いを見ると、彼女は写真的なモチーフに愛された写真家なんですね!

 

あ、あと、最後に。

そういえば、初期のモノクロの作品は粒子が荒い、いわゆるアレブレ的な作品でしたが、そのザラザラ感もまた、肌理ですよね。

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肌理の「ある」ものを、粒子(肌理)を際立たせた写真にすること、こっちは肌理的肌理写真ってかんじ。キメキメ?

 

 

3月4日まで。横浜美術館です。ぜひ!

安全圏から飛び出せ! - ドクメンタ14 in Kassel レポート 

ご無沙汰しております!

ドイツはカッセル、ドクメンタに行ってきました。

 

で、ど、ドクメンタなんぞや・・・といいますと、5年に1度ドイツのカッセルで開催される国際的なコンテンポラリー・アートの大きなお祭りです。 

documenta 14 

 

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さて、最近の日本は残念なことに

「はー、ナンキンダイギャクサツー?ジューグンイアンプー?そんなことありましたっけ?ないっすよね!えーと、ないっす!」

みたいな歴史修正主義的なムードがわずかに漂いつつありますが、

 

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ドイツはそんな私達の国とは対象的に、歴史を見つめて学ぶことが浸透しているといえます。(少なくとも日本よりは。)

そんなドイツで開催されるドクメンタは、ドイツやカッセル、そしてドクメンタ自体の歴史に深く根ざしているアートのお祭り。

 

第1回(1955年)のドクメンタは、ヒトラー率いるナチスがドイツを牛耳っていた時代に「これは劣悪でドイツらしくない芸術だ!」と見せしめのためにひらいた「退廃芸術」展で「退廃芸術」の烙印を押され、その後迫害されたアーティストたちをドイツとして評価し直すというきっかけで始まり、今年は14回目。

 

このような歴史に根ざしたドクメンタは、今回ももちろん「政治」に深く関わる芸術祭であって、それが他の芸術祭との大きな違いであり、ドクメンタのキャラクターです。

 「政治」を見つめ、考え、意思を表示する場所として「アート」を示す態度こそが、ドクメンタを世界の最も重要なアートのお祭りのひとつにしているのだと思います。

 

今回ドクメンタ14のテーマは「Learning from Athens」つまり、「アテネから学ぶ」です。(このテーマによって今回はカッセルだけでなくアテネでも開催されました。)

アテネは、言わずと知れたギリシャの首都。

わたしたちの世代だと、アテネオリンピックの印象がありますよね。

 

f:id:yzgz:20170911015310j:plain 超、気持ちいい!の時。

 

ギリシャは、あのアテネでのオリンピックに抱えた負債やちょろまかしがじわじわと国を追い詰め、2009年以降、国家の財政破綻債務不履行(お金かえせませーん!)などなど、ドイツを含むEU近隣国を巻き込んで危機的状況に陥っています。

また、アテネといえば、人類史上はじめて民主的な国家ができた場所。

さらに、いままさに、シリアやアフガニスタンからの難民が押し寄せていて、大規模な難民キャンプが作られている場所でもあります。

 

加えて、繰り返し申し上げているように、ドクメンタの開催国は歴史や文脈を大切にするドイツですから、ドクメンタの開催地カッセル(ドイツ)の政治にも無関係ではいられません。残念ながら民主主義によって生み出されたナチス・ドイツへの反省、難民の受け入れを巡る意見の対立などなど、、、、

 こうした歴史やテーマに関わるトピックがさまざまにリンクしたり(しなかったり)するのが今回のドクメンタです。

 

しっかしこのドクメンタ14、 手厚いキャプションがすべての作品についてるわけでもないし、なにが問われているのかわからない作品もあったし、もの派的なものからキネティック?な幾何学模様の絵画やドローイングなどもあって、本当に盛りだくさん。公式関連本も多すぎるし。混乱。

そもそも町全体に点在する作品を全部回るのがハード。

わたしは心身共に使い果たし、帰国後の今、風邪ひいてます。。鼻ズルズル。

 

ここでは、そんな混乱のなかでも印象深かった作品を少し紹介したいと思います。 

ひとつは、モナ・ハトゥム (Mona Hautom)の 「Fix it」。

メイン会場のフリデリチアヌム美術館には、アテネにあるギリシャの国立現代美術館(通帳EMST)に収蔵されている作品を展示していて、これもそのひとつ。

樽やドラム缶やロッカー、あと棚?みたいなものに電球が取り付けられていて、灯りがついたり消えたりするインスタレーション

 


documenta 14 - [11] Mona Hatoum - Fix it

 

 ここで使われている樽とかロッカーなどはすべて、1983年に倒産したアテネのビール会社「FIX」の工場跡地でモナ・ハトゥムが選んだitたち。そのビールの会社の跡地がいまでは国立現代美術館(EMST)になっているのですが、工業的なものの衰退とそれを再利用してFix it(据える)している作品。

モナ・ハトゥムは10月まで広島で個展が開催中。ヒロシマ賞をとったんですね!行けるといいな〜

 

 

同じくフリデリチアヌム美術館会場からもうひとつ。

Eirene Efstathiou (エイリーン・エフスタシュー?読み方わかんない、、)の「Anniversary」という36枚のリトグラフの作品。

ギリシャは1974年まで軍事政権だったのですが、前年の11月17日に、アテネ工科大学の学生が蜂起し、軍と衝突した事件がありました。

この日はその後ポリテクニオン・デーという"記念日"になって、犠牲者を追悼する大規模なデモが起こり逮捕者もちらほら出るのだそう。

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 Eirene Efstathiou - documenta 14

 

リトグラフの元になっているのは例年のこの記念日のイメージ。

こういうの、写真のドキュメントでなくて、リトグラフでドキュメントされていて、近くに寄ってみてはじめてなにかいざこざが起こってるんだな、とわかる絵もあれば、遠くから見ないとわからないものもあったりして、自然に作品に対して体が(目が)動く感覚に、わたしとポリテクニオン・デーとの距離感を思ったりしました。

  

あと、会場としておもしろかったのはNeue Gallery。

ナチス批判のカラーが明確に現れていた会場でした。

そのなかから、Lorenza Bottnerのドローイングや絵画。

 

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身体のいびつさを美しい尊いものとして見るまなざし。

優生思想への批判的意思を感じます。

 

あと、最後に、一番印象深くて一番胸糞悪かったのはこれ。

詳しくはググってほしいのですが(放棄)佐川一政という白人の人肉を食べた日本人のドキュメンタリー。

 

Véréna Paravel and Lucien Castaing-Taylor - documenta 14

 

まんがサガワさん

まんがサガワさん

 

 

 佐川が人肉を食した事件を元にした漫画を、佐川と一緒に読むというもの。あと、ご兄弟との佐川の生活の様子。焦点が合わない目のクローズアップでこっちも焦点が合わなくなる、みたいなゆるやかな二部構成の映像作品。

 アジア人が白人を食べることの象徴性とか、食べられたい-食べたいという欲求が異常とうつる人間社会の抑圧と、その欲をどうすればいいのか?とか、いろいろ感じましたが、

これを見ている間はなにより、もしわたしが日本人だってバレたら一緒に鑑賞していた白人に殺されるんじゃないかと思ったし、佐川を「同じ日本人として」恥ずかしいとか思っているうちに、国籍で他人と自分をまとめて恥と感じる感性みたいなものがすごく日本人的なのかなとか思ったりして、結局自分が恥ずかしくなったり。。。とにかく感情の振れ幅がめちゃくちゃになる作品でした。

 

 

と、ここでは全然紹介しきれてないけど、消化不良どころか過食嘔吐しそうなくらいの作品数。

ひとつひとつの作品からドクメンタの全体像を見出すのが難しいくらいにバラエティに富みすぎです。

 

さて、このバラエティ富過ぎ問題について(?)今回のキュレーターのアダム・シムジックは美術手帖のインタビューでこんなことを言ってます。

「アート・プロジェクトは絶対的な一貫性を持ち、予測・報告・説明が可能なものである、という考え方を好みません。そのように展覧会を作ることには意味がないのです。『我々はすべてを自覚しているわけではない』ことを理解するために自由に関連性を作っていくべきなのです。 」

美術手帖 2017年7月号 アダム・シムジック インタビューより

 

つまり、彼もこのバラエティを回収するつもりはないんですね。むしろ、回収の逆のベクトルで展開していくことに目的があるみたい。

 

普通、美術館で見られる展覧会はなんらかのテーマに対応する作品を集めて、ひとつのメッセージに回収して伝えることが多いわけですが、このドクメンタは、そういう安心できる美術の場所ではありません。地域礼賛イェーーーーー!!型の日本の芸術祭とも違います。

 

強いて言うなら、ここで紹介した作品に共通するのは「ドキュメント」であること。

紹介できませんでしたが、世界がいま直面する問題をドキュメントするタイプの作品は多かったと感じます。ドクメンタだもんね。

 

知らないことを知ることは決して安楽ではないけど、アートのシリアスかつ重要なエッセンスの部分をドクメンタは担っているのです。

 

と、するとドクメンタは現代に、世界が直面する問題の枝を広げるブレーン・ストーミングの具現化みたいなものかも?

 

 例えばメインの広場のマルタ・ミヌヒンによる「本のパルテノン」は、今年のテーマとドクメンタの歴史を集約した作品だから、これがブレストの中心にあると考えるとすごく枝が生やしやすい中心ですよね。

 

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(禁書が焼かれた(梵書)歴史を持っている広場、アテネの民主主義を代表する建物、「禁書」から考えられる進歩と後退など・・・多分あともっとたくさんの歴史や物語)

 

ここを中心にブレストの枝を伸ばして問いを立て、生えた枝からまた問いを立て、新しい枝が増えていく感じ。

芸術祭そのものの印象は散漫になりがちだけど、アダム・シムジックの意図としては、それこそがリアリティーであり、この形もまた現代のドキュメント(ドクメンタ)なのかなと思いました。

 

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そうすると、このMAPの形のメインビジュアル(いたるところで看板に使われているデザイン)もブレストっぽく見えてきたり。。。して。。。?する、、、かな。。。?どうかな・・・。

 

さいごに。

「本のパルテノン」のすぐ横にあるメイン会場「フリデリチアヌム美術館」いつもは、こんな感じ。

 

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 立派です。

 

しかし、このドクメンタの期間中はなんと、美術館の大事な表札を変えてドクメンタ14のメッセージを発信しています。

 

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「BEING SAFE IS SCARY 」重い!!!!!

 

この言葉、なんとなく、「敵対と関係性の美学」を思い出します。

yzgz.hatenablog.com

 

自分(たち)以外の他者がいない(他者を認識しない)SAFEな閉じた状況から出て、いま・この世界がSAFEでない、と認識することを求められているのかもしれません。

  

いま世界が(他者が)抱える問題を他人事じゃないようにすることが、このドクメンタが提供してくれる経験であり、アートが担っていくべき(と彼らが考える)役割、守られていくべき権利なのですね。

 

 もう今月の17日に終わるから、ぜひ見て!とは言いにくいけど、ドクメンタ14はわたしの2017年を人生の中で意義深い年にしてくれる経験になったとおもいます。

 

超長くなっちゃったーー。。最後まで読んでくれてありがとうございます。

ドクメンタのこと、まだまだ考えたりませんね!

ではまた!!!

 

実直に退屈であろうとすること。- TOP MUSEUMコレクション展 平成をスクロールする 春期「いま、ここにいること」展

 

TOP MUSEUM(これ、いまだに慣れない)にて、「いま、ここにいる」展を見てきました。

 

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今回は「平成をスクロールする」と題されたコレクション展で、写美が持っている平成に制作された写真を通して、平成の写真がどんなものだったか、そして平成という時代がどんな時代だったかをを振り返る展覧会だったとおもいます。

 

わたしが気になったのは「いま、ここにいる」という展覧会タイトル。

というのも、なんか聞いたことあるなーって感じがしたから。

たぶんこれは、おととし?原美術館で行われた「そこにある、時間」展を思い出したからかと思います。

(そっちについても書いているのでぜひです↓)

asaito.com

 

これらの写真展のタイトルを見るとわかるように、複数の写真をまとめて語るとき、その言葉は「そこにある」とか、「ここにいる」とか、「こそあど言葉+be動詞」的なノリになりがち。

わたしとしては、こういうフレーズ、なんかはっきりしないし、しっくりこない感じがしちゃうんですよね。

そこってどこだよ!いるって誰がじゃ!みたいな。展覧会を見るときの手がかりになるタイトルとしてはどうもつかみにくいし、ちょっと逃げられている感じさえしてしまいます。

 

だけど、こういう、なんかつかみにくい、ちょっと逃げられている感じは、「いま、ここにいる」展を見た感覚そのものでもありましたし、平成初期の日本の写真の特徴ともいえるんじゃないでしょうか。

 

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たとえば、ホンマタカシの郊外のシリーズ。

90年代を代表する写真のシリーズだと思いますが、この淡々とした、冷めた感じが90年代のテンションをよくあらわしていると思います。

わたし自身は、91年にうまれてからずっと、そこそこ「郊外」っぽいところに住んでいるので、90年代の郊外のテンションというものを確かに感じとってきたとおもう。清潔で便利なんだけど、ちょいちょい変なことが起こるし、変なひともいる。モンスターみたいな子供とモンスターみたいな親がいて、年老いていく親の親とかいて、そういうのを見たり聞いたりしながら、自分が「ここにいる」意味とかについて考えをめぐらせたりとかしちゃうわけです。

「別に親が住み始めた場所ってだけだしなー。」とか思ってるうちに

「ここにいる」ことについて冷めた(醒めた)感じになる。

「よくはないけど、別に悪くもないしなー。」的な。

 

そういう90年代のテンションについて、社会学者の宮台真司は「終わりなき日常」と呼んでいます。

f:id:yzgz:20170604113756j:plain (宮台さん)

 

「いま」より良い、「素晴らしい未来」に向かって突き進んでいた社会は、平成になって、ある程度成熟してしまって、ちょっと飽和状態になってしまった。

目指すべきものがないからずーっと平穏なんだけど、とても退屈な日常が続いていく状態、それが「終わりなき日常」です。

(「終わりなき日常」はオウム真理教について宮台真司が書いた本で語られた言葉ですが、平成を語るときには未だによく使われるキーワードです。)

 

さて、写真の話に戻ると、平成の写真と対象的なものとして、昭和の写真があります。

昭和の写真は、日常のなかに、私的な物語を見出したり、特別な瞬間をすくうような写真だったと思います。(もちろん例外もあるけど。)特別というのはつまり、終わりがくるもの、終わりが見えている瞬間を大切に保存しようとすることなんじゃないかなー。

 

アラーキーの「センチメンタルな旅」だとか、

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中平卓馬をはじめとするprovokeのメンバーのアレブレボケ、土門拳の撮るこどもも

 それらの多くが、カリスマ的に言葉を発する写真家本人やその界隈のひとによってさまざまに論じられてきました。写真が言葉を求めていたとも言えるかもしれません。

 

だけど、「いま、ここにいる」展で見られる今回の平成の写真は、別に言葉を求めたりしない。単にだるい、退屈な日常をそのままにとらえておく、という感じがします。

だから、確かに「ここにいる」であり、それ以上に語る言葉が出て来ない。

 

ロラン・バルトは写真論『明るい部屋』で写真の本質は「それは=かつて=あった」を告げることと言っていますが、「いま、ここにいる」も、時勢が現在になってはいますがほぼ同様の意味と言うことができるでしょう。

つまり、「いま、ここにいる」は写真そのものを示す言葉でもあるのです。

 

昭和の日本の写真家を、文学的に写真を用いて写物語を紡いだり、無意識を投影する一種のセラピーのように写真で世界と向き合ったりしていた、とすると、昭和の写真は、写真に写真以外のものを担わせていたのかも。

 

平成の写真家は、その流れに反発してか、社会の空気を写してなのか、写真を写真として扱い、それ以上に言葉を発したり求めたりしていません。写真にしかできないことを写真でしていたと言えます。

だから彼らの写真は、写真そのものを指す「いまここにいる」であり、言葉の外に出て、余分な意味づけを回避している感じがします。

   

とはいえ、わたしとしては「なにげない日常の風景を切り取る」ってなにげなさすぎじゃない?って感じがしちゃうのですが、退屈でゆるやかに見える平成の写真は、写真でしかできないことに実直に向き合っている写真なのかもしれません!

 

 

今回の「いま、ここにいる」展は、3クール連続で行われる「平成をスクロールする」というシリーズの初回、春期のコレクション展だそうです。

 

あと、夏期、秋期があるようなので、ことしは平成についてじっくり考えてみるのもいいかも!

 

topmuseum.jp

 

あと、TOP MUSEUMの前のスナック気になる。。。

ぜひです!

ではまた!