おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

「現象としての写真」をアップデートする -「most liked photo」について 

今回、作品を作って発表する機会に恵まれたので、4億年ぶりに作品をつくってみました!(助手展にだしてます)

 

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わたしが出展している「most liked photo」という作品は、instagramの画面をキャプチャーし、顔はめパネルにした作品です。

 

今作「most liked photo」では、現象としての写真の、現代の姿について考ることを試みています。

 

ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をはじめ、写真は現象としてもたびたび論じられてきた表現メディアです。

『複製...』では写真が絵画や彫刻などの芸術作品が持つ「アウラ」を奪い去ってしまう現象について論じられています。

ここで論じられているのは写真の登場と普及による影響ですが、その後も写真は技術革新によって、時代の節を作るように、時の文化や産業に大きく影響してきたのです。

このように写真は「もの」としてだけでなく「こと」として、理論的に扱われてきました。

 

さて、現代の写真の「こと」を考えるとき、SNSソーシャルネットワークサービス)での写真の使用は避けることができないトピックだと思います。

とりわけ、Instagramは写真を中心にしたSNSで、写真の作られ方から受容のされかたまでを大きく変えました。いまやインスタは多くの人の写真を撮る動機でもあり、目的でもあり、発表の場でありながら撮影・製作の場でもあります。

ところで、いまどきの中高生は、スマホで写真を撮ることを、撮った写真をインスタにあげなくても、「インスタする」と言うそうな。動詞にまでなっているのですね。わたしなんかついつい「写メ撮る」とか言っちゃってそのたびに世代とかいろいろ...感じてしまいます...

 

こんな感じでわたしは以前から、instagramが写真を変えることや、instagramが変えた写真がわたしたちの生活や暮らしを変えることについてすごく興味があったので、このブログのなかでも、instagramについて書いたことがあります。

 

yzgz.hatenablog.com

 

もう3年前になるこの記事でわたしは、インスタグラムは新しいファッションのかたちなのだ!と言っています。

要約すると、何を着る?よりも、だれと、どこで、なにをしたか?がいまのファッションなのであり、それを表明するツール兼場所としてinstagramは機能している!ということ。インスタグラムは、写真を鎧に変えたのだ!ウォー!と主張しています。

 

今回の作品「most liked photo」では、写真を「こと」として考える方法をアップデートするとともに、instagram(や他のSNS)が可能にした鎧としての写真を、鑑賞者のみなさんにインストールしてもらい、鎧としての写真の姿を目に見えるかたちにすることも試みています。

 

顔をはめても楽しいですが、顔が抜かれた状態もまた鎧としての「写真」が際立つかなとおもうので、思い思いに楽しんでくださると嬉しいです。

(鎧って言うより見た目は盾かも....)

 

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2月19日から25日までです。最終日にはアーティストトークもある模様です。。。

  

短い会期ですが、他の助手さんたちの作品も大変素晴らしいクオリティになってますので、ぜひです!

 

スパーーーク!する!写真的モチーフとの出会いー 石内都「肌理と写真」@横浜美術館

 

ご無沙汰です。

あけましておめでとうございます。

うっかり年を越して、気付いたら1月も終わっててびっくりしてます。

 

今年のはじめに石内都「肌理と写真」を見てきました。

 

yokohama.art.museum

 

石内都(いしうち みやこ)といえば、木村伊兵衛賞ハッセルブラッド国際写真賞、紫綬褒章を受賞していて、この受賞歴にも明らかなように文字通り日本を代表する写真家。

 

今回の展覧会を見ていて思ったことは、石内さんの扱うモチーフ(被写体)って「写真的」!ということ。

写真的ってどゆことー?ですよね。いまから言います。

 

わたしは、初期のモノクロ作品から、近年の遺品や衣服などのシリーズに至るまで、彼女の写真からは、「触れるとかたちが変わってしまうもの」に対する興味(むしろ執着)を感じます。

朽ちたアパートの壁の塗装や、皮膚に残るしわ、衣服や布のしわ、などなど。

石内さんの写真のこういう被写体の選び方を見て、写真的だ、と感じます。難しく言い換えると、彼女は指標(インデックス)的性質のあるものを追っている。

 

たとえば、ベッドにできたシーツのしわは、そこに誰かがいたことを示すものです。

 

しかもそこに残る痕跡はとてもオリジナルだし、似たようなしわはできるかもしれないけど、わたしだけの、今夜だけの寝返りが、翌朝の二度とないしわを生み出すのだと思うと、なんだかしわもロマンチックなものに思えてきちゃう。

 

そしてその「しわ」は、触れたり動いたりすると「かたちが変わってしまう」はかないものです。(とても神経質になればそのシワを撫でたりすることもできたりするけど、超繊細な手つきにならざるを得ません。)

石内さんは、二度とない一瞬を光の痕跡で保存する写真のように、誰かの人生や時間の経過を受け止めて保存したものたちを選んで撮影しているのですね。

 

ロラン・バルトが写真について、「かつて、そこに、あった」を示すものであると述べたように、衣服のシワもまた、なにかが「かつて、そこに、あった」ことを示すもの。と、なると、彼女の写真は超写真的写真ってかんじ。いや痕跡的痕跡?

 

 

ただしそれらが、彼女の場合、彼女が受けた感覚や興味の方向がかなり色濃ーーく反映された写真になっていて、それらを丁寧に保存し、伝達するために撮影する、という感じではなさそうなことも、こうして一挙に彼女の作品を見て強く感じたこと。

 

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たとえば彼女の撮り方は、被写体が静物なのに水平、平行も不安定だし、正対もしません。寄ったり、離れたり、被写体が画面におさまらなかったりもします。

丁寧に「かつて、そこに、あった」ことを保存することが目的なのであれば、こんな撮り方はあまりしないものです。

 

保存していつか伝えることがしたいなら、こんなに客観的でない構図にはならないんじゃないか、と思います。

彼女の写真はとても主観的で、彼女自身の「こう見たい」「ここが見たい」が超露骨。

 

そこに彼女が「写真的」なモチーフに対する純粋な興味に突き動かされて写真を撮っていることを感じ取れるのです。

 

 

さて、彼女のこうした「写真的な」モチーフとの出会いと、モチーフの持つ歴史がスパーーーク!したことで、彼女の国際的な評価をババーン!と高めたのが「ひろしま」のシリーズ。

ひろしま

ひろしま

 

 

今回の展覧会でも、最後の展示室に彼女の集大成的な一作としてデデーンと鎮座していました。

 

ひろしま」シリーズは、広島平和記念資料館に収蔵された原爆の被害者の遺品を撮影した作品です。

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ひろしま」における衣服のシワは、そこに生命があったことを思い出させるし、ほつれや染みや破れた穴を見ると、そこにあった生命が事実として完膚なきまでに打ちのめされて失われたこと、その痕跡が示す明らかさに、物理的に胸が痛くなります。

 

石内さんの持つ衣服やそのしわへの興味と、衣服がまとう歴史の完全な一致が、切実な反戦のメッセージを発しているこの作品は、まさに奇跡の出会いスパーーーーク!!です。

 

 

だけど、 わたしは「ひろしま」を見ていると、被写体が持つ歴史よりも、しわや衣服の素材感など、石内さんの局所的な興味のほうが優っている気がしてしまう。

広島である必要があったのかなー?と。

 

ひろしま」以前の彼女の作品を見ていると、パラパラ落ちる塗装とか、ぼこぼこ、しわしわ、みたいな肌触りのあるもの(つまり肌理!)への純粋な、無邪気な関心が写真に充満しています。

 

だけど、どうも「ひろしま」は、彼女の無邪気で強いモチーフへの関心を鑑賞するには「広島」の歴史とそのイメージが強すぎるし、この写真から「広島」に思いを寄せるには彼女の肌理への執着が強すぎる。

彼女の作品のなかでは、作品と社会(歴史)がつながり大きな広がりを持つようになった意欲作と言えるかもしれないけど、実際のところ、彼女は変わらず自分の興味を探求し続けているんだな、と感じます。

 

実際、こちらの👇インタビューによると、やはり、「ひろしま」は、編集者さんの、「広島」を撮ってみませんか?という話から始まったシリーズのようですね。

www.magazine9.jp

 

石内さんの言葉を読んだり写真を見たりすると、どうやら彼女はカメラを通して被写体と会話をしているようです。無邪気。

それは、きっとこれまでもそうだったんだろうな。

 

彼女がこのインタビューで「わたし自身は広島となんの関係もなかった」という趣旨のことを語っているように、この出会いは偶然だけど、だからこそ尊いとも言えるのかも。あのような強い作品ができるなら。

写真家の興味と被写体が持つ歴史の出会いは奇跡だし、「広島」の恐怖を広く強く伝えて人々の目を開かせる力は、原爆ドームのあの骨組もよりも、もしかすると強いかもしれません。 

 

わたし個人としては、彼女の写真は「ひろしま」以前の、誰かや何かの痕跡の残る「肌理」への純粋な興味に満たされた超写真的写真におもしろさがあると感じていたから、「ひろしま」はなんとなくやや意味が多すぎてしまった感じがしちゃいましたけど、

ひろしま」までの写真的モチーフとの選択、そして、「ひろしま」でのモチーフとの出会いを見ると、彼女は写真的なモチーフに愛された写真家なんですね!

 

あ、あと、最後に。

そういえば、初期のモノクロの作品は粒子が荒い、いわゆるアレブレ的な作品でしたが、そのザラザラ感もまた、肌理ですよね。

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肌理の「ある」ものを、粒子(肌理)を際立たせた写真にすること、こっちは肌理的肌理写真ってかんじ。キメキメ?

 

 

3月4日まで。横浜美術館です。ぜひ!

安全圏から飛び出せ! - ドクメンタ14 in Kassel レポート 

ご無沙汰しております!

ドイツはカッセル、ドクメンタに行ってきました。

 

で、ど、ドクメンタなんぞや・・・といいますと、5年に1度ドイツのカッセルで開催される国際的なコンテンポラリー・アートの大きなお祭りです。 

documenta 14 

 

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さて、最近の日本は残念なことに

「はー、ナンキンダイギャクサツー?ジューグンイアンプー?そんなことありましたっけ?ないっすよね!えーと、ないっす!」

みたいな歴史修正主義的なムードがわずかに漂いつつありますが、

 

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ドイツはそんな私達の国とは対象的に、歴史を見つめて学ぶことが浸透しているといえます。(少なくとも日本よりは。)

そんなドイツで開催されるドクメンタは、ドイツやカッセル、そしてドクメンタ自体の歴史に深く根ざしているアートのお祭り。

 

第1回(1955年)のドクメンタは、ヒトラー率いるナチスがドイツを牛耳っていた時代に「これは劣悪でドイツらしくない芸術だ!」と見せしめのためにひらいた「退廃芸術」展で「退廃芸術」の烙印を押され、その後迫害されたアーティストたちをドイツとして評価し直すというきっかけで始まり、今年は14回目。

 

このような歴史に根ざしたドクメンタは、今回ももちろん「政治」に深く関わる芸術祭であって、それが他の芸術祭との大きな違いであり、ドクメンタのキャラクターです。

 「政治」を見つめ、考え、意思を表示する場所として「アート」を示す態度こそが、ドクメンタを世界の最も重要なアートのお祭りのひとつにしているのだと思います。

 

今回ドクメンタ14のテーマは「Learning from Athens」つまり、「アテネから学ぶ」です。(このテーマによって今回はカッセルだけでなくアテネでも開催されました。)

アテネは、言わずと知れたギリシャの首都。

わたしたちの世代だと、アテネオリンピックの印象がありますよね。

 

f:id:yzgz:20170911015310j:plain 超、気持ちいい!の時。

 

ギリシャは、あのアテネでのオリンピックに抱えた負債やちょろまかしがじわじわと国を追い詰め、2009年以降、国家の財政破綻債務不履行(お金かえせませーん!)などなど、ドイツを含むEU近隣国を巻き込んで危機的状況に陥っています。

また、アテネといえば、人類史上はじめて民主的な国家ができた場所。

さらに、いままさに、シリアやアフガニスタンからの難民が押し寄せていて、大規模な難民キャンプが作られている場所でもあります。

 

加えて、繰り返し申し上げているように、ドクメンタの開催国は歴史や文脈を大切にするドイツですから、ドクメンタの開催地カッセル(ドイツ)の政治にも無関係ではいられません。残念ながら民主主義によって生み出されたナチス・ドイツへの反省、難民の受け入れを巡る意見の対立などなど、、、、

 こうした歴史やテーマに関わるトピックがさまざまにリンクしたり(しなかったり)するのが今回のドクメンタです。

 

しっかしこのドクメンタ14、 手厚いキャプションがすべての作品についてるわけでもないし、なにが問われているのかわからない作品もあったし、もの派的なものからキネティック?な幾何学模様の絵画やドローイングなどもあって、本当に盛りだくさん。公式関連本も多すぎるし。混乱。

そもそも町全体に点在する作品を全部回るのがハード。

わたしは心身共に使い果たし、帰国後の今、風邪ひいてます。。鼻ズルズル。

 

ここでは、そんな混乱のなかでも印象深かった作品を少し紹介したいと思います。 

ひとつは、モナ・ハトゥム (Mona Hautom)の 「Fix it」。

メイン会場のフリデリチアヌム美術館には、アテネにあるギリシャの国立現代美術館(通帳EMST)に収蔵されている作品を展示していて、これもそのひとつ。

樽やドラム缶やロッカー、あと棚?みたいなものに電球が取り付けられていて、灯りがついたり消えたりするインスタレーション

 


documenta 14 - [11] Mona Hatoum - Fix it

 

 ここで使われている樽とかロッカーなどはすべて、1983年に倒産したアテネのビール会社「FIX」の工場跡地でモナ・ハトゥムが選んだitたち。そのビールの会社の跡地がいまでは国立現代美術館(EMST)になっているのですが、工業的なものの衰退とそれを再利用してFix it(据える)している作品。

モナ・ハトゥムは10月まで広島で個展が開催中。ヒロシマ賞をとったんですね!行けるといいな〜

 

 

同じくフリデリチアヌム美術館会場からもうひとつ。

Eirene Efstathiou (エイリーン・エフスタシュー?読み方わかんない、、)の「Anniversary」という36枚のリトグラフの作品。

ギリシャは1974年まで軍事政権だったのですが、前年の11月17日に、アテネ工科大学の学生が蜂起し、軍と衝突した事件がありました。

この日はその後ポリテクニオン・デーという"記念日"になって、犠牲者を追悼する大規模なデモが起こり逮捕者もちらほら出るのだそう。

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 Eirene Efstathiou - documenta 14

 

リトグラフの元になっているのは例年のこの記念日のイメージ。

こういうの、写真のドキュメントでなくて、リトグラフでドキュメントされていて、近くに寄ってみてはじめてなにかいざこざが起こってるんだな、とわかる絵もあれば、遠くから見ないとわからないものもあったりして、自然に作品に対して体が(目が)動く感覚に、わたしとポリテクニオン・デーとの距離感を思ったりしました。

  

あと、会場としておもしろかったのはNeue Gallery。

ナチス批判のカラーが明確に現れていた会場でした。

そのなかから、Lorenza Bottnerのドローイングや絵画。

 

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身体のいびつさを美しい尊いものとして見るまなざし。

優生思想への批判的意思を感じます。

 

あと、最後に、一番印象深くて一番胸糞悪かったのはこれ。

詳しくはググってほしいのですが(放棄)佐川一政という白人の人肉を食べた日本人のドキュメンタリー。

 

Véréna Paravel and Lucien Castaing-Taylor - documenta 14

 

まんがサガワさん

まんがサガワさん

 

 

 佐川が人肉を食した事件を元にした漫画を、佐川と一緒に読むというもの。あと、ご兄弟との佐川の生活の様子。焦点が合わない目のクローズアップでこっちも焦点が合わなくなる、みたいなゆるやかな二部構成の映像作品。

 アジア人が白人を食べることの象徴性とか、食べられたい-食べたいという欲求が異常とうつる人間社会の抑圧と、その欲をどうすればいいのか?とか、いろいろ感じましたが、

これを見ている間はなにより、もしわたしが日本人だってバレたら一緒に鑑賞していた白人に殺されるんじゃないかと思ったし、佐川を「同じ日本人として」恥ずかしいとか思っているうちに、国籍で他人と自分をまとめて恥と感じる感性みたいなものがすごく日本人的なのかなとか思ったりして、結局自分が恥ずかしくなったり。。。とにかく感情の振れ幅がめちゃくちゃになる作品でした。

 

 

と、ここでは全然紹介しきれてないけど、消化不良どころか過食嘔吐しそうなくらいの作品数。

ひとつひとつの作品からドクメンタの全体像を見出すのが難しいくらいにバラエティに富みすぎです。

 

さて、このバラエティ富過ぎ問題について(?)今回のキュレーターのアダム・シムジックは美術手帖のインタビューでこんなことを言ってます。

「アート・プロジェクトは絶対的な一貫性を持ち、予測・報告・説明が可能なものである、という考え方を好みません。そのように展覧会を作ることには意味がないのです。『我々はすべてを自覚しているわけではない』ことを理解するために自由に関連性を作っていくべきなのです。 」

美術手帖 2017年7月号 アダム・シムジック インタビューより

 

つまり、彼もこのバラエティを回収するつもりはないんですね。むしろ、回収の逆のベクトルで展開していくことに目的があるみたい。

 

普通、美術館で見られる展覧会はなんらかのテーマに対応する作品を集めて、ひとつのメッセージに回収して伝えることが多いわけですが、このドクメンタは、そういう安心できる美術の場所ではありません。地域礼賛イェーーーーー!!型の日本の芸術祭とも違います。

 

強いて言うなら、ここで紹介した作品に共通するのは「ドキュメント」であること。

紹介できませんでしたが、世界がいま直面する問題をドキュメントするタイプの作品は多かったと感じます。ドクメンタだもんね。

 

知らないことを知ることは決して安楽ではないけど、アートのシリアスかつ重要なエッセンスの部分をドクメンタは担っているのです。

 

と、するとドクメンタは現代に、世界が直面する問題の枝を広げるブレーン・ストーミングの具現化みたいなものかも?

 

 例えばメインの広場のマルタ・ミヌヒンによる「本のパルテノン」は、今年のテーマとドクメンタの歴史を集約した作品だから、これがブレストの中心にあると考えるとすごく枝が生やしやすい中心ですよね。

 

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(禁書が焼かれた(梵書)歴史を持っている広場、アテネの民主主義を代表する建物、「禁書」から考えられる進歩と後退など・・・多分あともっとたくさんの歴史や物語)

 

ここを中心にブレストの枝を伸ばして問いを立て、生えた枝からまた問いを立て、新しい枝が増えていく感じ。

芸術祭そのものの印象は散漫になりがちだけど、アダム・シムジックの意図としては、それこそがリアリティーであり、この形もまた現代のドキュメント(ドクメンタ)なのかなと思いました。

 

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そうすると、このMAPの形のメインビジュアル(いたるところで看板に使われているデザイン)もブレストっぽく見えてきたり。。。して。。。?する、、、かな。。。?どうかな・・・。

 

さいごに。

「本のパルテノン」のすぐ横にあるメイン会場「フリデリチアヌム美術館」いつもは、こんな感じ。

 

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 立派です。

 

しかし、このドクメンタの期間中はなんと、美術館の大事な表札を変えてドクメンタ14のメッセージを発信しています。

 

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「BEING SAFE IS SCARY 」重い!!!!!

 

この言葉、なんとなく、「敵対と関係性の美学」を思い出します。

yzgz.hatenablog.com

 

自分(たち)以外の他者がいない(他者を認識しない)SAFEな閉じた状況から出て、いま・この世界がSAFEでない、と認識することを求められているのかもしれません。

  

いま世界が(他者が)抱える問題を他人事じゃないようにすることが、このドクメンタが提供してくれる経験であり、アートが担っていくべき(と彼らが考える)役割、守られていくべき権利なのですね。

 

 もう今月の17日に終わるから、ぜひ見て!とは言いにくいけど、ドクメンタ14はわたしの2017年を人生の中で意義深い年にしてくれる経験になったとおもいます。

 

超長くなっちゃったーー。。最後まで読んでくれてありがとうございます。

ドクメンタのこと、まだまだ考えたりませんね!

ではまた!!!

 

実直に退屈であろうとすること。- TOP MUSEUMコレクション展 平成をスクロールする 春期「いま、ここにいること」展

 

TOP MUSEUM(これ、いまだに慣れない)にて、「いま、ここにいる」展を見てきました。

 

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今回は「平成をスクロールする」と題されたコレクション展で、写美が持っている平成に制作された写真を通して、平成の写真がどんなものだったか、そして平成という時代がどんな時代だったかをを振り返る展覧会だったとおもいます。

 

わたしが気になったのは「いま、ここにいる」という展覧会タイトル。

というのも、なんか聞いたことあるなーって感じがしたから。

たぶんこれは、おととし?原美術館で行われた「そこにある、時間」展を思い出したからかと思います。

(そっちについても書いているのでぜひです↓)

asaito.com

 

これらの写真展のタイトルを見るとわかるように、複数の写真をまとめて語るとき、その言葉は「そこにある」とか、「ここにいる」とか、「こそあど言葉+be動詞」的なノリになりがち。

わたしとしては、こういうフレーズ、なんかはっきりしないし、しっくりこない感じがしちゃうんですよね。

そこってどこだよ!いるって誰がじゃ!みたいな。展覧会を見るときの手がかりになるタイトルとしてはどうもつかみにくいし、ちょっと逃げられている感じさえしてしまいます。

 

だけど、こういう、なんかつかみにくい、ちょっと逃げられている感じは、「いま、ここにいる」展を見た感覚そのものでもありましたし、平成初期の日本の写真の特徴ともいえるんじゃないでしょうか。

 

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たとえば、ホンマタカシの郊外のシリーズ。

90年代を代表する写真のシリーズだと思いますが、この淡々とした、冷めた感じが90年代のテンションをよくあらわしていると思います。

わたし自身は、91年にうまれてからずっと、そこそこ「郊外」っぽいところに住んでいるので、90年代の郊外のテンションというものを確かに感じとってきたとおもう。清潔で便利なんだけど、ちょいちょい変なことが起こるし、変なひともいる。モンスターみたいな子供とモンスターみたいな親がいて、年老いていく親の親とかいて、そういうのを見たり聞いたりしながら、自分が「ここにいる」意味とかについて考えをめぐらせたりとかしちゃうわけです。

「別に親が住み始めた場所ってだけだしなー。」とか思ってるうちに

「ここにいる」ことについて冷めた(醒めた)感じになる。

「よくはないけど、別に悪くもないしなー。」的な。

 

そういう90年代のテンションについて、社会学者の宮台真司は「終わりなき日常」と呼んでいます。

f:id:yzgz:20170604113756j:plain (宮台さん)

 

「いま」より良い、「素晴らしい未来」に向かって突き進んでいた社会は、平成になって、ある程度成熟してしまって、ちょっと飽和状態になってしまった。

目指すべきものがないからずーっと平穏なんだけど、とても退屈な日常が続いていく状態、それが「終わりなき日常」です。

(「終わりなき日常」はオウム真理教について宮台真司が書いた本で語られた言葉ですが、平成を語るときには未だによく使われるキーワードです。)

 

さて、写真の話に戻ると、平成の写真と対象的なものとして、昭和の写真があります。

昭和の写真は、日常のなかに、私的な物語を見出したり、特別な瞬間をすくうような写真だったと思います。(もちろん例外もあるけど。)特別というのはつまり、終わりがくるもの、終わりが見えている瞬間を大切に保存しようとすることなんじゃないかなー。

 

アラーキーの「センチメンタルな旅」だとか、

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中平卓馬をはじめとするprovokeのメンバーのアレブレボケ、土門拳の撮るこどもも

 それらの多くが、カリスマ的に言葉を発する写真家本人やその界隈のひとによってさまざまに論じられてきました。写真が言葉を求めていたとも言えるかもしれません。

 

だけど、「いま、ここにいる」展で見られる今回の平成の写真は、別に言葉を求めたりしない。単にだるい、退屈な日常をそのままにとらえておく、という感じがします。

だから、確かに「ここにいる」であり、それ以上に語る言葉が出て来ない。

 

ロラン・バルトは写真論『明るい部屋』で写真の本質は「それは=かつて=あった」を告げることと言っていますが、「いま、ここにいる」も、時勢が現在になってはいますがほぼ同様の意味と言うことができるでしょう。

つまり、「いま、ここにいる」は写真そのものを示す言葉でもあるのです。

 

昭和の日本の写真家を、文学的に写真を用いて写物語を紡いだり、無意識を投影する一種のセラピーのように写真で世界と向き合ったりしていた、とすると、昭和の写真は、写真に写真以外のものを担わせていたのかも。

 

平成の写真家は、その流れに反発してか、社会の空気を写してなのか、写真を写真として扱い、それ以上に言葉を発したり求めたりしていません。写真にしかできないことを写真でしていたと言えます。

だから彼らの写真は、写真そのものを指す「いまここにいる」であり、言葉の外に出て、余分な意味づけを回避している感じがします。

   

とはいえ、わたしとしては「なにげない日常の風景を切り取る」ってなにげなさすぎじゃない?って感じがしちゃうのですが、退屈でゆるやかに見える平成の写真は、写真でしかできないことに実直に向き合っている写真なのかもしれません!

 

 

今回の「いま、ここにいる」展は、3クール連続で行われる「平成をスクロールする」というシリーズの初回、春期のコレクション展だそうです。

 

あと、夏期、秋期があるようなので、ことしは平成についてじっくり考えてみるのもいいかも!

 

topmuseum.jp

 

あと、TOP MUSEUMの前のスナック気になる。。。

ぜひです!

ではまた!

 

「パロディ、二重の声」展で、深く暗い川について考える。


ご無沙汰です。
東京ステーションギャラリーで「パロディ、二重の声」展を見てきました。

www.ejrcf.or.jp

 

ステーションギャラリーの入り口、東京駅のドームのところ、わくわくしませんか!

いつかステーションホテル、泊まってみた〜い

 

さて一昨年、2020年の東京五輪エンブレム問題というのがありましたよね。

 

まずエンブレムのデザインが酷似している、ということが話題になり、更にエンブレム使用予想図?の写真が無断で流用されたものだと指摘され、デザイナーの他の作品までもが批判を受ける始末で、最終的には政治利用っぽい感じもありつつ、結局審査し直し。

その上デザイナーの出身大学であるタマビの別の学生にまでパクリ疑惑!とかなって炎上にあしたりして。正直に言って、どうかしてるぜ〜。な状況でした。

 

この一連の出来事で、世の中の多くの人とデザインやアートを生業にする人との間には、深ーくて暗ーい川が流れていること、そして、アートやデザインの孤立みたいなものを、私は目の当たりにした気がしました。

 

そんな出来事によって明らかになった深く暗い川に対して、美術の展覧会ができることはなにか、というと、「正当なパクリ」としての引用やパロディについて考える場をひろく提供することなのだと思います。


(もちろん、あのエンブレム騒動は佐野氏にも若干の落ち度があったと思いますので、「正当なパクリ」ではなかったかもしれませんけど、パロディや引用などの手法を「パクリ」というレッテルをはって批判するのはもったいないと思います。)

 

今回の「パロディ、二重の声」展はあのときにアートやデザインの側につきつけられた「美術(orデザイン)におけるパクリとは何か?」という問いにアンサーを返すような展覧会でした。

その展覧会テーマが集約されている横尾忠則の作品を見てみましょう。

 

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左側は「パロディ、二重の声」展のポスターに使用された1968年の東京五輪亀倉雄策の超イケてるポスターを引用した横尾忠則の作品。

右側は、元の亀倉さんのポスター。今見てもフレッシュ。

 

この横尾の作品がメインビジュアルとされたことで〈オリンピックと「パクリ」〉というキーワードによって、なんとなく70年代前後と現代のアートやデザインが繋がってくる気がします。

 

 横尾の作品「POPでTOPを!」にはこんなセリフが書いてあります。

POPでTOPを!
芸術貧の方は「POP」印のカンヅメで
TOPをかちとろう.....!

よくよく見ると、ここで走っているのは、手前からピカソ、ルオー、スーラなどなど。超豪華メン。

そんななかで先頭(トップ)を走るのは、リキテンスタインポップアートの代表的なアーティストです。

 

 f:id:yzgz:20170410190936j:imageこんな作品を作っています。

 

 彼は、高尚ぶったアートに大衆的でポップなカルチャーとしての漫画を取り入れ、その1コマを拡大したような絵画を作りました。つまり芸術とは言えない一般的な娯楽のひとつであった「漫画」をパクった、といえるかもしれません。

さらにリキテンスタインの絵にはもうひとつ「パクリ」があります。

それは彼が絵に使う色。赤、青、黄の三色は、抽象画家のモンドリアンがよく用いた色使いです。

 

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こうしてみると、リキテンスタインは「パクリ」だらけのアーティスト、ということになりますが、彼は最も高く評価されている現代アーティストのひとりです。まさに、トップを走っているアーティストです。

 

リキテンスタインなどのポップアートが流行した60年代(日本では70年代前後)は「オリジナリティや個性を尊重する芸術品」よりも、横尾忠則の作品における「芸術貧(ゲイジュツヒン)」的態度、つまりそれまでの美術史の引用や、それまで芸術品にはなりえなかったモチーフや材料を参照した「オリジナリティを持とうとしない立場」が優位にあったことを示しています。

 

 つまりリキテンスタインは意図的に、バレてもよい、むしろバレたほうがよい、という立場で漫画やモンドリアンを「パクった」のです。

 

この「パクリ方」こそ、リキテンスタインの作品の重要な要素なのであり、「正当なパクリ」であるパロディや引用です。

また、亀倉さんのポスターを「パクり」、リキテンスタインをはじめピカソやスーラなどの絵を「パクった」横尾忠則の「POPでTOPを!」も、パロディであり引用。

 

ここまでだけでも引用の引用、パロディのパロディ、と、今回の展覧会で扱われている作品がとても重層的なことがわかると思います。

故意に真似をして、真似した先を隠す一般的な意味でのパクリとはやっぱり違います。

 

ただ、その違いももちろん曖昧。

 

ではどこからが悪でどこからが正当なのか?

 

いろいろな観点や分け方があると思いますが、

わたしは、パクリとそれ以外のパロディや引用との違いは、それがある種の「ドキュメンタリー」として機能するかどうか、はひとつポイントではないでしょうか。

 

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こちらのフォトコラージュを制作した木村恒久は自分の作品を「ドキュメンタリーとしてのフィクション」と定義しています。

「ドキュメンタリーとしてのフィクション」のわかりやすい例にこちらがあります。

 

 

 

ぷろだくしょん我Sの「選挙演説」の作品です。

 

展覧会ではこじんまりとしていますが、実際は公園にたくさんの空気人形を持ってきて、選挙演説を再現したとのこと。でたらめな選挙演説の音声もついています。

選挙の形式的な儀式や慣習、システムに、「虚しいぜ」と感じた若者アート集団が、選挙を中身が空虚な空気人形を使って「パクった」というわけです。

つまり、選挙演説のパロディ。さらに言うと選挙演説のドキュメンタリーをフィクション的要素の強い人形で行なっているのですね。

 

 さて、これを選挙演説の悪い意味でのパクリと呼ぶか?というとそういうわけではないですね。

 

このようにフィクションを通して世の中や美術の世界の実際のできごとをドキュメントするための「パクリ」はやはり正当なパクリと言ってよいでしょう。むしろ、選挙というフォーマットを空気人形で「パクる」ことで、選挙活動に対して直接的に、「あんたのやってることは空虚だ!」と批判するよりも、すごく強い意味を持つ作品になっていると思うのです。

 
美術やアートにおいて、オリジナリティとか個性を前提とする慣習は未だに根強いです。

学校ではなにごとも真似はいけませんよって教わることが多いしね。特に美術では。。
それは慣習っていうより信仰に近くて、なかなか簡単に変えることはできないかも。

たぶんそういう無意識の信仰が、例の深くて暗い川を作っているのでしょう。

 

デザインの世界の常識、昨今のアートの現状、それは必ずしも一般常識ではないし、逆に言えば、アートは「一般常識」との間に深くて暗い川を敷くことよって自らを権威付けている、ともいえるわけです。

 

この展覧会はそういう深くて暗い川を、ライトな面白さとパロディ作品の重層的な引用を明らかにすることによって、すこーしだけ、浅く、明るくしてくれるかもしれません!

 

ここまでたらたらと書いてきましたが、そういうのは無視しても普通に笑えて面白いのでぜひです!

f:id:yzgz:20170411210938j:image しょーもなさ(笑)。

 

残り1週間切ってますがぜひ足を運んで見てくださいませ!

 

 ではまた〜!

 

アールデコ建築でスピる?- ボルたんの「アニミタス – さざめく亡霊たち」展

 

東京都庭園美術館で、クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会「アニミタス – さざめく亡霊たち」を見てきました。

 

www.teien-art-museum.ne.jp

 

ボルタンスキーといえば、もう現代美術の世界ではスーーパーー巨匠クラスで、日本でもいくつかの恒久展示があるし、とても見ごたえのあるアーティストだと思っています。

彼はホロコーストに影響を受けて死や亡霊をテーマに作品を作っていて、無名の人の写真・古着、そして音や風などを、作品を作るときの道具にしています。写真も古着も、人の生きたこと・死ぬことを思わせるとても強いアイテムですし、音や風はその演出に大変な効果があると思います。

 

わたしは、豊島の心臓音のアーカイブでとても感動したし、大掛かりな舞台セットのような作品(越後妻有の《最後の教室》など)は、現代美術をあまり見たことがない人にも、インパクトのある「現代美術のよい思い出」にできるような体験を提供してくれるアーティストだと思っています。

 

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そして、今回の「アニミタス – さざめく亡霊たち」展は、素敵なアールデコ建物である目黒の東京都庭園美術館で開催されるとのことで、美術館の場とかその場の記憶みたいなものに、寄り添ったよ、という体裁をとっています。

(ちょっとボルタンスキー長いので、ボルたん、と呼びます。)

 

体裁をとっている、と申しましたように、わたしは今回の展覧会、正直あんまり満足のいくものではありませんでした。

 

展覧会全体を通して印象的だったのは、ボルたんのインタビューです。

原文ままではないですが、ボルたん曰く、

「実際に見るより、その作品のことやその作品が存在していることを知っていることの方が意味がある」とのこと。

 

これは、インタビューの中で、展覧会のタイトルになっている作品《アニミタス》についてボルたんが語っていたことです。

 

f:id:yzgz:20161108193603j:plain(《アニミタス》)

 

《アニミタス》は、チリのアカタマ砂漠に、ボルたんが生まれた日の星と同じように配置された日本製の風鈴が風に鳴る様子を撮影した映像作品です。

アカタマ砂漠は、地球上で最も乾燥している高地で、そのために、すごく星が良く見える場所なのだそう。

だけど、その標高2000mの土地に、人が頻繁に訪れることはなく、その作品は、ほとんど映像でしか見ることができない。

 

ボルたんがその《アニミタス》という作品について「実際見ることよりも知ってることに意味がある」と語ったことは、今回の「アニミタス」展全体について語るときにも当然通じるところだと思いました。

ただ、今回の「アニミタス」展について言うならば、「実際にこの展覧会を見るよりも、ボルタンスキーの他の仕事を知っていてようやく意味がある」と言いたくなるような感じ。

 

例えば《帰郷》という作品。

《眼差し》という作品の中にあるのですが、急に会田誠の作品(↓)が出てきたのかと思いました、、、、実は金色のエマージェンシーブランケットで古着の山を包んだもの、だそうです。

 

f:id:yzgz:20161108194139j:plain (会田誠《おにぎり仮面》これにそっくりの作品があるのです)

 

先ほども書いたように、ボルたんといえば、古着はおなじみです。

人の気配と同時に不在を強く感じさせることのできる古着を使った作品は、本当に強烈なインパクトで、心がざわつきます。

 

f:id:yzgz:20161108193922j:plain(越後妻有《No Man's Land》わたしはハウスダストアレルギーなのでこれはめっちゃ鼻水出そう)

 

しかし、今回は古着の山がエマージェンシーブランケットで完全に覆われています。

この作品は、ボルたんの古着の作品について知っていてこそ、その意味が際立つ作品だと思う。もちろん美術に少し関心のあるひとなら知っていると思います。でも本来、ボルたんの作品で古着が想起する生死の気配を拭ってしまってはいないでしょうか。。。ここでボルたんの作品をはじめてみる人には通じないんじゃないか?そういう人は観客として想定されていないの?

うんこ、うんこ、って部屋のいろんなところから聞こえてきたしさ。。。

 

おびただしい数の古着を見た時にはホロコーストや、日本人だと毎年起こっている災害のことを想起しますが、それを、1枚(に見える)エマージェンシーブランケットで覆ってしまったときに、ひとりひとりの命や精神の重要性が際立ってくるとは私にはどうも思えない。

作品解説には 

この作品が初めて発表されたメキシコの都市モンテレイは外国資本が多く入る有数の裕福な都市ですが殺人事件が多発する最も危険な街でもあります。その姿は唯一無二の存在感を放ち、富をもたらすと同時に災いの元にもなり得る“黄金の山”の表裏を思い起こさせます。一方で、持ち主不明の大量の衣服の山にエマージェンシーブランケットで覆う行為に、一人ひとりの生死を残酷なまでに等しく見つめるボルタンスキーの一貫した眼差しも感じられます。(一部抜粋)

 と、ありますが、、、、

 重症の患者にかけるブランケット、メキシコの危険な都市、黄金、古着、無名の多くの人の生死。。。とりあえず全部詰め込んではあるけど、どうもクリアにつながってきません。。。(やっぱりわたし鈍感なのかな)

 

その《帰郷》のまわりにあった《眼差し》という作品も、なんだか、写真の持つ生と死の感覚みたいなものをうまく反映できているようには思えませんでした。

 

写真を材料として使う場合には、写真の「真実」という要素や「証明」という社会的役割だとか、いろんな引き出しがあります。

ボルたんは、ずっと人物の写真を使用しているので、写真が想起させる「被写体が確実にこの世に存在していたこと、そしていまはもういないかもしれないこと」という「人間の生死」の気配が、彼の写真についての関心事だったのでしょう。

 

この《眼差し》では、証明写真の目の部分だけが拡大されて軽い布にプリントされていて風にふわーっと揺らぐのですが、この写真の使い方にはちょっとフィクショナルでエンターテインメントっぽい「亡霊」っぽさを感じてしまいました。

あるいは。ホラー映画で幽霊出てくるときってなんかいつも風吹いてるよね!!!みたいなテンション・・・?

 

f:id:yzgz:20161108194429j:plain(《眼差し》とわたし)

 

(カルチャー系シティーボーイアンドガールのフォトスポットとしては、インスタ映え間違いなしです。)

(平日は写真撮影ができるので、空いてるし、おすすめ!)

 

それよりなにより納得がいかなかったのは、《さざめく亡霊たち》でしょうか。

今回のこのあんまり気に入らないっていうテンションはそもそも、この↓インタビューを読んでいて、美術館に行く前からボルたんなんかスピってねえ?と思ってた、というのもあります。

旧朝香宮邸で「亡霊」たちの声に耳を傾ける 東京都庭園美術館でボルタンスキーの展覧会

「旧朝香宮邸を訪れて、昔のパーティーで人々が踊っているのを感じました」、、、!?!?)

角度をしぼったスピーカーからの音声で、耳元でささやかれているように聞こえる《さざめく亡霊たち》は、ちょっとボルたん様、お名前の看板に頼りすぎてませんか?という気がしました。

 

彼なりに美術館の記憶、そこで暮らした人(の亡霊)に寄り添ったり、対話したりしてできた作品かもしれないけど、関口涼子さんによる「さざめき」のセリフもなんだか肝試し風だし。

あの耳元でささやかれているような感覚と、美しいアールデコ建築だけでは、解説のように「歴史とは「事実」の連なりではなく、もっと複雑で重層的なものだということを思い起こさせ」てはくれないんじゃないかなあ。。。

でも、あの指向性スピーカーは不思議体験。びっくりできて楽しいかもしれません。。。。

 

と、まとまりませんがこんなところで今日はおしまい。

ボルたん自身もインタビューで「ほとんど子供じみた遊びです」と語っていた《影の劇場》でおわかれしましょう。

 

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なんかこの言葉、展覧会そのものに当てはまっちゃってんじゃないだろうか・・・と不安になりますが・・・・。

今回の展覧会はさておき、ボルタンスキーは現代アートの大巨匠ですし、素敵なアールデコ建築で作品を見ることができるのは寒空のデートにぴったりではないでしょうか!

最後のインタビューまで見るとより楽しめると思いますので、インタビューはじっくり時間をとって見るのがおすすめです。

とても楽しめたという人がいればオススメポイントを教えてください!

12月25日まで。ぜひです!

 

わー修論かかなきゃ〜〜〜(泣)

 ではまた!

ボブ・ディランのノーベル賞受賞に思ったこと - 「文学」のふしぎ

実のところボブ・ディランには特別な思い入れはないし、わたしはとても読書家というわけではないんだけど、本を読むことは好きだし、文学というものも好きだと思う。

 

たぶん、文学よりも「これぞ、文学だ!」と、言われている映画とか漫画、美術作品、いわゆる、「文学だといわれている文学以外のもの」が好き。
「これぞ、文学だ!」という言葉は、文学に使うこともあるだろうけど、
ふしぎに形容詞的な、なにかしらの雰囲気を示す使い方をされている言葉ですよね。


最近だと田根剛の建築について杉本博司が「文学的な建築」だと言っていて、なんとなーくエストニア国立博物館、確かに文学っぽい建築かも、としっくりきてしまいました。

 

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  (あんまりいい写真がないみたい。詳しくは情熱大陸の動画を、、どこかに落ちてるはず!)

で、ノーベル文学賞を、ミュージシャンが受賞したわけですがこれまた、文学だといわれている文学以外のもので、、、「文学」って言葉にちょっと酔ってきました。

 

たぶん、ボブ・ディランが賞を授与された意図は、文学の概念の拡張なんじゃないかなと思っているんですけど、
現在のノーベル賞のカテゴリーの中で美術や音楽は(たぶん平和っぽいもの以外)賞の対象にできないなかで、ノーベル賞が与える文化的な賞のカテゴリーが文学賞であることはなかなかにおもしろいことだと思います。

 

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 イケてる。。。

 

 ただやっぱりそうなると、文学ってやっぱりほかの芸術よりも上位っぽい感じがなんとなくするし、そうなると、「文学的」は最上位の褒め言葉ってことなのかもしれない。


そして、ノーベル文学賞はそのうち、「文学的な文学以外のものにも『文学』という最高の褒め言葉を与える」賞になるのかもしれませんね。

じっさい、経済学以外の賞は、ノーベルさんの遺言によって設立されているようなので、ノーベルさんが文化的なものの至高のものを文学だと思っていたのかも。


というのも最近、「写真とはなにか?」という2013年の(最近!)の論文を読んでいたら
サルトルの「文学とはなにか?」が発表された時(1948年)の文学の状況が、現代の写真の状況に似ているよね、という内容で、なんだかホットに感じたからなのです。

 

実際、文学の概念の拡張や転換、戦前までの文学に対する疑いは、戦後の混乱のヨーロッパにおいて、1948年には言われていたことなんじゃないかなと思うんだけど、ボブ・ディランノーベル賞受賞によって、狭くて、敷居の高〜い文学理論から、ようやく昨日、(約70年後に!)世間一般の理解の範疇に浸透しはじめるんだと思います。


先日トーマス・ルフ展について書いたとき、「最近の写真は、写真という概念を拡張している」と、書いたのですが、全世界が注目するノーベル賞で大胆にも文学の概念を拡張する文学のポピュラーさには、ボブ・ディランをよく知らなくても素直に、すっきりとした心で喜べます。

 

対して写真の概念の拡張は、現代美術の世界のなかで、いまひっそりと行われているところ。あるいは、ようやく写真の合成が当たり前になった中で、じわじわと拡張しているところなのかもしれません。

 

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 (フォトショでぐにゃぐにゃ背景の紀香 ) 

 

フェイスブックとかのSNSでは、おもしろ写真とかびっくり動画、あと、めっちゃかわいい女の子とか。見ることがありますが、それを見て合成だった時の「がっかり感」、それこそが、わたしたちが写真に期待する写真の姿なのだろうと思います。

その「がっかり感」がなくなったときが、写真の概念の拡張や転換が一般的になった、といえるのかもしれませんね。

 

まあいまから70年かかるかもしれないけど、その頃に写真ってあるのかな。。。?
文学か、「文学だと言われている文学以外のもの」はあるかもね。

あるといいなー。

 

と、結局写真の話になりましたがきょうはこのへんで!

では!