おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

現代写真「ゆらぎ」の潮流  ー 浅間国際フォトフェスティバルについて

 

こんにちは。

夏終わりましたね。

 

フジファブリックの夏の終わりの例の曲をカーステレオから流しつつ、DEATH★DRIVEブッ飛ばして浅間国際フォトフェスティバルへいってきました!

 

f:id:yzgz:20180919081416j:plain 水谷吉法がドーン!

 

長野県御代田町に新しくできる写真美術館のスタートアップイベントだったようで、今年が第1回。

 

出展アーティストは、かなりホットなラインナップで、まさに「いま(主催のアマナが発行する写真雑誌はIMAといいます)」のタイミングで見たい人たちの作品を一挙に見ることができます。

しかもタダ。タダうぇーい!

わたし個人としても、ルーカス・ブレイロック、横田大輔、小山泰介、小林健太は修士論文でも扱った写真家(アーティスト)なので、とても楽しみにしていました。

f:id:yzgz:20180919081331j:plain 小林健太いい〜〜!

 

 

さて、今回、いいな、と思ったポイントは、美術館の入り口にあった今回のフェスティバル全体を総括するようなマニフェスト的文章。

 

せっかくなので、さっそく引用させてもらいます。

 

カメラに帰れ 

Return to Camera

(略)このフェスティバルをナビゲートする一つの方法は、それぞれのケースにおける「写真的行為」を検証することです。ある時は、写真を作るのにカメラを使わないこともあります。もしくは、ストレートなストリートスナップで構成されていることあるのです。(略)

 この「写真的行為」の検証という部分、とてもいいな、と思いました。

わたしにとって写真のおもしろみは、この「写真的行為」の複雑さ、広さ、多様性(と、同時にある制約)にあるからです。

 

例えば、カメラを使うこと、暗室で作業すること、photoshopを使うこと、(人が撮った)写真を使うこと、指標的性質前回のブログ参照、写真用紙にプリントすること、写真史に配慮すること、などなどなど、「写真」と呼ばれる作品は、このような様々な手法で作られている場合があります。逆にいうと、このなかのどれかひとつを満たしているだけで「写真」とみなされている作品もあるということ。

 

なので、

「じゃあその、「写真」を「写真」にする「写真的行為」って、どんなものがあるだろう?」「この作品はこの点で「写真」って言えるかも?」「あれ、もしかして「写真的行為」って時代によって変わる?」etc...

なあんてことを考えるのが、今回のフェスティバルで見られるような新しい写真を見ることの楽しみではないでしょうか。

 

例えば、今回出展している石橋英之は(実は大学のゼミの先輩!)、絵(写真)はがきを複写し、デジタルデータにしてコラージュする「写真」を作っているアーティストで、自分で写真を撮ることはありません。

 

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 つい、「写真家」は「シャッターを押す人」とイコールに考えられがちです。そうなると、石橋英之は写真家ではないのでは?なんて思われることにもなります。

だけど、ここで、この作品の「写真的行為」を考えることが、この作品を写真フェスティバルのなかで見ることの意義になるし、「写真家」の多様なあり方を示してくれます。

 

たとえば、この作品のなかに「写真的行為」をさがすと、まず、コラージュするアイテムの選択があげられます。シャッターを押す場所を選択する、のと、どの写真を使うか選択する、のは、世界の一部分を切り取るという意味で写真的な行為な気がするし、当然、複写は写真的行為です。

それから、フォトショップなどの写真用ソフトウェアを使うことはいまや写真に欠かせないプロセスですから、ソフトウェアの使用も写真的行為といえそうです。

 

このように、被写体と向かい合う撮影の時間を重要視しなくても写真家であろうとすることは可能なのです。(本人が写真家という肩書にこだわっているかどうかは別にしてだけど。)

 

今回出展している写真家はほんとうにみんないまをときめいてます。

彼らの作品は、わたしたちが「写真」だと思っているものの観念が揺らがせてくれます。この「ゆらぎ」の感覚こそ、世界の現代写真の潮流なのですね。

 

 

さて、ここまで「これはどう写真か?」という問いを持って写真を見る「写真的行為」について思いを寄せる鑑賞方法についてお話ししてきましたが、今回の写真フェスティバルのなかで、気になってしまったのが展示方法。 

正直ノイズになっていたものもありました。

特に、写真家と建築家とのコラボレーションワークは、マジはてなワールド。。。。エンドレスなんで?????状態でした。

 

たとえば、モルテン・ランゲ(モーテン・ラング?)の「Citizen」。鳩のポートレートのシリーズです。

Mårten Lange(works より「Citizen」をご覧ください)

 

都市に住み着いて、ひとびとをうっとおしがらせる鳩ですが、顔に着目して撮影(=ポートレート)すると、個体差が際立って、ああ彼らも市民なのだ、と気づきを与えてくれる、いい写真だと思います。

普段は病気持ってるから近づいちゃだめ!とか言われてよく見ないけど首のまわりふわふわそう〜〜〜気持ちよさそ〜〜〜クルッポー☆って感じ。

 

展示の様子はこちら。

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鳩見えます?

会期も終わりに近づいてきてしまって、紙がねじれちゃったりしてるのでしょうか。。。

 

好意的に解釈して、鳩を都市から森へうつしてあげて馴染ませる、とか言えるのかもしれないけど、もはや鳩かどうかも微妙だし、ポートレートとしての写真の役割を果たすことができる展示方法ではないですよね。 

森美術館レアンドロ・エルリッヒ展がそうであったように、インスタ映えはいまや展覧会の集客手段になりつつありますし、それでお客さんが来るならそれはいいことだと思っていますが、じゃあこれ映(ば)えるか?っていってもまあ映えないし。

誰得?写真にとっても、写真家にとっても、そしてフェスティバルにとっても、鑑賞者にとっても、よい作用があるとは思えません。。。

 

同じことが、こっちの鳥にも。

www.lukestephenson.com

 

ルーク・ステファンソンの「A Incomplete Dictionary Of Show Birds」は、タイポロジーの手法(似たもの・同じ名前を持つのものを集める方法)で観賞用のショウ・バードを撮影しています。

その展示方法がこちら。

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 紙を筒状に垂らして展示されているのですが、中に入って見たのが2枚目。

先程のモルテンの鳩と同じように鳥が八つ裂き状態!!キャーーー!

 

「この筒のなかに入ると、鑑賞者が鳥かごのなかに入ってしまい、逆に鳥ににらまれている気がするでしょ?

というのが、この展示方法の意図ではあるようですが、結局、像がはっきりと見えないから、うん、八つ裂きの鳥っすね。って感じだし、ぶっちゃけ八つ裂きどころじゃない。

どちらの作品も、図録を見たら実際の展示風景じゃなくて「画像はイメージです」(深い)的なCGだったから、やってみたけど、あんまりうまくいかなかったってことでしょうか。。。

 

「写真的行為」の検証という導きの、ノイズになるような展示方法は、ただでさえ「写真なの?」という困惑を招く今回の気鋭の写真展において、鑑賞者を袋小路のはてなワールドにいざなってしまいます。

ここはどこ?わたしはだれ?しゃしんってなに?ってなっちゃう。

 

たとえば、小山健輔の作品は展示方法まで含めて作品ですから、あの展示方法と作品は切り離せないものです。

 

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だけど先に書いた石橋英之の作品も風になびいていて、じっくり見るのが難しかったし、ひらひらすることで浅間山とコラボレーションしてるって意味なんだとしても、ちょっと内容と展示が少し遠い気がしました。

こんな感じで、このフェスティバルでは「展示方法と作品を切り離せないタイプの写真」と、「展示方法と作品の結びつきが薄いタイプの写真」が混濁しています。

はてなトラップ。危ないぜ!

 

ですので、これから見に行く方は、思考が迷子になったら展示方法と作品を切り離して考えてみてもいいのかも。

 

とはいえ、世界基準の現代写真を日本でまとめて展示で見ることができる機会はなかなか少ないのが現状ですから、この浅間国際フォトフェスティバルが毎年開催されるようになったら、それはすごくうれしいですし、新しい写真美術館とても楽しみです。

 

会期も残りわずかですが、いま見る価値のある写真家ばかりですので、初秋のドライブがてら、行ってみてはいかがでしょう。タダだもん!

ここまで書いてきたこと以外にも、たくさんのトピックがあって、見ると話したくなる展示であること間違いなしです。

野外展示も多いので、おしゃべりしながら見れるしね!

 

asamaphotofes.jp

 

9月30日まで。ぜひでーす!

てか、ホンマタカシは手ぇぬきすぎじゃない?そんなことない?

あと、全然関係ないけど、新潮45が超むかつく。 

 

ではまた!

ロザリンド・クラウスの「指標論」を噛み砕く。 withゴードン・マッタ=クラーク展

 

「指標論」て何それ?的でもあり、いまさらどーした?的でもあると思いますが、今回はロザリンド・クラウスの「指標論」をボリボリ噛み砕こうと思います!

 

さて、ロザ…?クラ…?ゴードン……クラ……ってタイトルだけでどっちもだれや!状態かもしれませんね。

 

まず、ロザリンド・クラウスアメリカの美術批評家。

 

f:id:yzgz:20180724075413j:plain おしゃまんべです。

 

クラウスは、ポストモダニズムの現代美術の時代の中心的な存在で、現在76歳です。

ブログタイトルの「指標(インデックス)論」も彼女が書いたもので、そのなかで言及されているアーティスト、ゴードン・マッタ=クラークの展覧会が、灼熱地獄の東京・国立近代美術館で開催中です!

 

f:id:yzgz:20180724080141j:plainGMC 31歳。

 

今回のブログでは、クラウスの「指標論」を通して、国立近代美術館で開催中のゴードン・マッタ=クラーク(以下GMC)の展覧会について考えながら、「指標論」を噛み砕いていきたいと思っています。

 

クラウスの「指標論」は通称「インデックス論」と呼ばれる論文です。

 

この「指標論」、70年代の抽象芸術について論じているのですが、同時にとても重要な「写真論」であるとも言えます。

 

ちなみに「指標論」にはパート1とパート2があり、GMCについての言及があるのはパート2。そして私がGMCについて知ったのも、まさに「指標論」を読んだのがきっかけ。

 

さて「指標論パート2」冒頭でクラウスはこんなことを言っています。

大人女子会風のクラウス。(のイメージ。)

写真と抽象絵画って、めっちゃかけ離れてるように思えるけど、最近の、つっても1970年代の抽象芸術についてはそうでもないって感じがする。実際、最近の抽象芸術は、かなり写真的だよね〜。抽象絵画って写実的なものバイバーイ的なムードでめっちゃ流行ったけど、逆に、最近は抽象芸術が写真の機能とかちょー意識してきてる気がする。

こんな感じで話されたら「わかるー」って言いたいところだけど、あんまりしっくり来ませんね。

じゃあクラウスの言う「写真的」ってなんなんでしょう?

 

ここで、さっきからなんどか繰り返されてきた「指標」という言葉に着目します。

「指標」とは、ある対象(もの)を表す記号や方法を分類したときのひとつのグループの名前です。

記号は、指標を含めて3つに分けることができ、他に「イコン(類像)」と「シンボル(象徴)」があります。

例えば、「タイヤ」をあらわす記号の3分類を見てみましょう。

 

タイヤのイコンはタイヤと「類似性がある記号」で、

これとか、 f:id:yzgz:20180724090438j:image

f:id:yzgz:20180724090442g:imageこれとか。

こんなの。f:id:yzgz:20180724090450p:image

このように、イコンのわかりやすい例は絵です。つまり、本物の対象に「類似している」記号なのです。

 

つぎにシンボル(象徴)。

タイヤのシンボルは「タイヤ」であり「たいや」であり「tire」であり「إطار العجلة」であり「សំបកកង់」です。

私たちはあの、乗り物の下についている、丸くて、ゴムっぽい素材で、大抵は黒いアレを「タイヤ」と呼びますが、アレが「タイヤ」である、ということは、みーんなの暗黙の了解ですよね。ものの名前などは大抵、こうした暗黙の了解によります。

だから、「タイヤ」と、みんなが「タイヤ」と呼ぶ乗り物の下のアレの間には直接の結びつきはありません。

つまり、アレが「タイヤ」であることは、みんなの約束ごと。

このように、みーんなのお約束に基づく記号を、シンボルといいます。

 

さて、最後にインデックス(指標)です。

タイヤを示すインデックスは、タイヤが通った後の轍(わだち)や、道に残されたブレーキ痕などです。

他の例を出すと、根性焼き痕はタバコのインデックスで、木がわっさわっさと揺れていたらそれは風のインデックス、となります。

つまり、インデックスという記号は約束事でも類似でもない、「物理的な結びつき」がある(あった)記号。

それと、「あなた」や「わたし」「あれ」「これ」など、発話者とタイミングによって内容が変わる言葉も、なにかを実際に指差して発する言葉で、「それそのもの」を示すためにインデックスの記号に含まれます。

 

 と、ここまで3つの分類を見てきましたが、さて、写真はどこにあてはまるでしょう??

 

……Aのイコン………….か…………?

と思いきや、実はインデックス(指標)なのです!ババーーーン!

 

えー?って感じですね。写真は本物にそっくりだから、イコンっぽい感じもする。

 

ではなぜ写真がインデックスなのか。

 

「指標論」が書かれた頃、写真はフィルムで撮影するものでした。フィルムの感光性や、印画紙に焼き付ける方法は、化学反応によります。

つまり、写真とは、わたしたち人間の手によって作られた類似の記号ではなく「自然界の秩序」による「光の物理的な接触の痕跡」なのだとクラウスは言います。

だから、写真はインデックスの記号になるのですね。

そして同時に、写真が示すものは、「それ」や「これ」という言葉のように、写し出された景色を「指し示す」ものでもある。

例えば、証明写真は、写真がある人その本人を「指し示す」もの。写真はそのような指し示す特徴を持っているので、そういう意味で写真はインデックスなのです!

 

このように、クラウスが「指標論」のなかで、「写真的(本文では写真の機能的モデルなどの言い方)」としているのは、写真の「インデックス(指標)」的な特徴のこと。

つまり冒頭の女子会トークでクラウスが述べていたのは、「指標的な特徴=写真的な方法を使った抽象芸術を最近よく見ます、」ということだったのでした。

 

さて、ここでよ〜〜〜〜〜うやく、GーどんMッタCラークの登場です!!

 

GMCは、パフォーマンス・アートや建築、空間などに関心がある現代美術家です。

彼の代表的なプロジェクト、「ビルディング・カット」は文字通り、建物に切れ目をいれる作品ですが、今回の展覧会では、その写真や模型などを見ることができます。

 

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GMCの試みは、すでに建った建物を「カット」することによって、わたしたちが意識の外に置きがちな「建物そのもの」や「内と外」の関係に意識を向かわせます。

 

こちらの《スプリッティング》のプロジェクトでも、切断の痕跡がその作品の中心的な要素になっています。

 

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GMCの作品はこのように、「指し示す」という写真的な方法を使った芸術作品なのです。

 クラウスは

マッタ=クラークの作品において、切断が建物を意味するーーそれを指し示すーーことができるのは、ただ除去や切り取りというプロセスによってである。

 と述べて、GMCの作品が持つような指標性を、ぐいぐいキてる現代芸術の特徴としています。

 

例えば、少し手法は異なりますが、

《ごみの壁》、《ごみのレンガ》などのシリーズもわたしにとっては写真的。

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《ごみのレンガ》は、ガラス工場のゴミを固めた作品。

そもそも単なるごみにも指標性がある気がするけど、それをレンガとして固めること、それを作品にすることによって何層にも指標性が含まれている気がします。

 

個人的お気に入りは、《日の終わり》。

 

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この穴は、まず穴があること、そして壁があったことや、外に海があって、太陽があって、影の位置やかたちが変わることによって時間の変化や空間の広さ(そして狭さ)を「指し示し」ています。

 

また、今回の展覧会ではフォトコラージュで「ビルディング・カット」を再現する手法も多々見られます。上下左右やパース、スケールが自由に組み合わせられたコラージュは、刺激的に写真が使われていて、三半規管に訴えてくる感じが楽しかったです。

 

わたしは、今回のGMC展を見て「それがあった」ことを示す「写真的」芸術の力に驚いて、 ああそうだった!と、写真のそういう純粋な「指し示す」能力が生み出す感動を思い出したりもしました。

 

GMCの展覧会は「写真的」の観点を入れて見てみると、パフォーマンスアートや建築への問題提起だけでない面白さを感じることができるので、クラウスの「指標論」と合わせておすすめ。

「指標論」がある意味「写真論」であったように、今回のGMC展も、むしろ「写真展」なんじゃないかとさえ、思えてきちゃいます!

写真をやってる人にとっては、どこが「写真的」かを考えながらみると、逆に「写真ってなんだっけ?どういうものだっけ?」という問いも生まれてきます。それってもはや写真展より写真展かも?

 

9月までやってますので夏休みにぜひ!

 

www.momat.go.jp

 

yzgz.hatenablog.com

☝︎こちらは過去の噛み砕くシリーズです。

 

 Have a good summer vacation 〜 ☆

メシマズ写真的絵画の快楽 - 「五木田智央 PEEK A BOO」展について

 

こんにちは!

今日はオペラシティで開催中の「五木田智央 PPEKABOO 」展についてです!

 

さて、この五木田さんの絵といえば、テイトウワのアルバムアートワークなんかにも使用されたりしているし、ファッションや音楽などアート以外のさまざまなカルチャーと親和性があって、とにかくおしゃれ。

写真っぽいけど絵画だとわかる、現代的でキャッチー。かつシュールで少し不気味な感じ。五木田さんのイラストのTシャツとか着てたらちょっと一目置かれそうなグッド・サブカルチャー感があります。

 

さて、そんな五木田さんの個展「PEEK A BOO」展について、美術批評家の黒瀬陽平さんが東京新聞に寄せた展評が話題です。

 

 

とても厳しい意見を寄せていますよね。

だけど、実はわたしも今回の展覧会に、五木田さんのことを理論的な後ろ盾まで含めて実感し理解することを期待していたので、実際、展覧会を見たことによって五木田さんに関する理解が深まった、とは言えなくて、ちょっと不完全燃焼でした。

展示を見に行く時って、自分が発見したい気持ちもあるけど、やっぱりなんらかの知見が示されたものを見に行ってるところもあるからね〜。

 

展覧会のなかでネオ・エクスプレッショニズムとか、リヒターとかからの影響やそれをどのように乗り越えているかとか、そういうことはやっぱりわからなかったし、確かにおしゃれな感じはするけど、それが美術史的になにかを乗り越えたのかっていうとわからなかった。(絵画をみるということはそうした歴史や文脈からの影響を考えることでもあります。)

「見た目にも超かっこいいけど、実は論理的にここがいいんですよ!」という強い意思のようなものが見えなかった。

 

 

じゃあおまえは何書くねん書いてみろやって話ですが、

今日は、「写真的」とも言われる五木田さんの絵画について、写真(教育)の近くにいる人間として、どんなふうに楽しめるかなーということを考えていきたいと思います!

 

さて、ちょっと前に「メシマズ写真」がネット上で話題になったことがありました。

被写体となった料理じっさいは多分おいしいかもしれないんだけど、写真がなんかどうもうまくいかなくてめっちゃマズそうに見える....ってやつですね。

 

matome.naver.jp

 

五木田展を見ていて思ったのは、「メシマズ」ならぬ「女マズ写真の絵画」って感じがするなってこと。(イケてないって意味じゃないです)

 

突然ですが、今回の展覧会のなかには、これからぶつかり稽古がはじまるんだな、という感じの絵画が何点かありましたよね。(恋人や配偶者じゃないひととの性的な接触のことをぶつかり稽古と呼んでいました、大学生のとき。)

それは男性から女性を見る視点で描かれていたり、第三者としてそういうことが始まりそうなふたりを見つめる視点(なにかのワンシーン?)だったりしていました。

だけど、なんか、ドキドキもしないし、グッとこないし、ムードとかもあんまり感じない...。

 

わたしは男の子じゃないのでわかりませんが、例えば

いま、この目の前の女の人との、肉感たっぷりで濃厚なぶつかり稽古が待っているのはわかっているけど、ぶっちゃけそこまで好みじゃない・・けど、もうこの引くに引けない状況、わかっちゃいたけど午前2時、終電なし、よし、よし、腹をくくる、よし、、はっけよーいのこった!

 

みたいな、ちょっとゲンナリする、萎え〜的シチュエーションを想像してしまいました。。。。萎え〜。(たとえば、「try me」という作品とか。)

それくらい、女性たちが全然魅力的に描かれていないのです。

女性をぜんぜん魅力的じゃなく描いていることは、男性のこうあってほしい女性像の押し付けとかも感じないので、一緒にげんなりできて、それはそれで楽しく鑑賞できたけど。

 

じゃあ、なんでこんなにこの女の人たちはマズそうに見えるのか。

 

ここでメシマズ写真を思いだしてください。

わたしは、メシマズ写真のひとつの特徴として、至近距離でフラッシュをたいちゃったことによって、被写体のお食事がのっぺりしたり、色味が正しく出なかったりすることがあげられると思うのですが、まさに五木田さんの絵は、ブス的光源、ブス的ライティングによって描かれているように見えます。色はモノクロだからそりゃそうだけど。

 

例えばこれ。

 

f:id:yzgz:20180611075956j:plain ヒラリー?

 

光の方向や当たり方を見ると、この女性の前には暖炉のような低い位置に灯りがあって、やや下方向からのぼんやりとした光源に照らされている感じがします。

ポートレートを撮影する場合、女性を美しくしようと思ったら、一番やらないのがこの光の当て方です。

下から光を当てるとうらめしや〜感も出るし、一気におブスな印象になるから。

これがもし色のある絵だったら、暖色のおだやかな感じの灯りになるんだろうけど、モノクロの絵だと、そういうふうにもならないし、なおさら女マズ感が漂ってくる気がします。

もちろん女性を描いた絵以外にも、写ルンですのフラッシュ使ったのかな?みたいな安価な強い光で照らされたメシマズ的光源を感じる作品が多々あったように感じました。

 

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それから、メシマズ感のほかに感じた印象は、悪夢みたいだということ。

汗だくで目が醒めるような嫌〜な夢みたい。目が覚めたそのときの頭のなかにカメラをぶちこんで写真にとったらこんなふうになりそうだな、という気がします。

 

 

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あと、夢によくある登場人物がわからなくなっちゃった感じもあります。

だから、逆にわたしの知ってる誰かかも?感もある。

 

f:id:yzgz:20180611085839j:plain 田中真紀子

 

わたしはこれらの作品を、単なる「怖い絵」にとどまらない絵画作品として語る可能性としては、「悪夢を写真に撮ったような絵」に見えること、つまり写真というほかのメディアとの関わりによるところで考えていくことかな、と思いました。

 

彼の作品が写真的に見えるのは、豊かなグレーのグラデーションによる陰影の描き方によるとわたしは考えています。

これは、「怪物ような植物」という作品。

 

f:id:yzgz:20180611092655j:plain「怪物のような植物」

 

他の、人物を描いた写真とは異なり、メシマズ感は抑えめで、わたしはメイプルソープの植物の写真を思い出しました。

 

f:id:yzgz:20180611092921j:plain 怪物ぽい。

 

圧倒的階調の美しさを誇るメイプルソープの写真を思い出させられたってことは、そのグラデーションの豊かさが、五木田さんの絵画に写真らしさを与えている大きな要素のひとつなのかもしれません。

かといって、そのグラデーションが全面に展開されていないのも、五木田さんのおしゃれな部分なのでしょう。

 

わたしも、五木田さんの絵を見ていて、グラデーションが唐突にぶった切られる大胆な線にはウキウキしました。

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例えばこの絵のおっぱいの部分(なんでこれしか写真撮らなかったんだろ)、これくらいの遠目の距離で見るとすごく美しい陰影。もしかしたらこの人美女かも?くらいの感じがする。

で、そのおっぱい部分をクローズアップすると、

 

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 ものすごく唐突な線で、着ている服の存在感とプリントとおっぱいの立体感を示すグラデーションが対比されています。

こういう線や塗りの違いは近づいて見たり、遠くからみたりして改めてわかることでもあるから、そういう行ったり来たりの運動は絵を見るときの、素朴だけど楽しい経験です。

 

写真にはありえない「塗り」やマチエール、イラレやフォトショで作られたのではない”人力”グラデーションに着目して見ると、写真らしいけど写真じゃない、絵画の楽しみを実感できるかも?

  

五木田智央 PEEKABOO|東京オペラシティアートギャラリー

 

6月24日(日)までです!

またギリギリになっちゃった....!

ぜひです!!

インターネットのある世界を生きるわたしたちと、自由についての物語-「ハロー・ワールド」展について

こんにちは!

今日は、水戸芸術館の「ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて」展について。

もう展覧会も終わってしまうので(5月6日終了)ほとんど自分にわからせるためにですが。。書いておきます。。。。

 

わたし、この1月に運転免許を取得し、今回この展示を見に行くために初心者マークを携えて、はじめての長距離ドライブをぶっ飛ばしてきました。

何度かの臨死体験を経て、渾身のハロー・ワールド。

生きててよかったです。

 

さて、展覧会タイトルの「ハロー・ワールド」は、コンピューターなどのプログラミングが正しく運用されているか確かめるために用いられる最初のチュートリアルなんだそう。

Hello world - Wikipedia

試しにお手持ちのsiriに「ハロー・ワールド」と話しかけると、彼(or彼女)がその最初のチュートリアルのプログラム言語で答えてくれます。

知能をもった機械と世界の出会い、なんかわくわくしちゃうよね!

 

今回のブログのタイトルは

「インターネットのある世界を生きるわたしたちと、自由についての物語」とつけました。

これは、わたしがこの「ハロー・ワールド」展を「自由」をめぐる物語のようだなと感じたからです。

 

今回の展覧会は8組のアーティストによって構成されていて、展覧会を進むに連れて、わたしたちがインターネットによって得る自由や希望が、インターネットによる支配や自由の搾取にだんだんと移り変わっていったような感じがします。

 

はじめは、セシル・B・エヴァンス《溢れだした》という、ペッパーくんやアイボなどのロボットを使った演劇的なインスタレーション

「リバティー」の名前を持つ超人気者・スーパーインフルエンサーのAIのyoutuberの死の噂が流れて、ファンであるペッパー君たちが右往左往する、というストーリーです。

このストーリーのなかでは実際はリバティーは生きているのですが、単なる噂や憶測によってひとびと(ここではペッパー君)が混乱し、騒ぎになります。この演劇で起こっていることは、実際のわたしたちの世界でも、噂やデマなどの拡散力がインターネットによって格段にあがっていること、そしてそうしたデマなどにわたしたちが振り回されることを示してくれています。

そして、印象深かったのは、この演劇の最後。

スーパー人気者インフルエンサーのリバティーは、「わたしは死んでいない」、「リバティー(自由)は死なない」と宣言し、幕を下ろすのです。

 

そうして、わたしはこの宣言をハロー・ワールド展を貫くひとつのテーマととらえて、この展覧会では、それぞれの作品における自由と支配とのせめぎ合いについて考えることにしました。

 

続く、小林健の写真作品は、GUI(グラフィックユーザーインターフェース)ネイティブの感覚を視覚化した、写真(ツール)を通して世界に「触れる」作品です。

 

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Kenta Cobayash 小林健太

 

わたしたちは、テクノロジーによって世界に触れる自由を持つようになりました。

画面のうえで指を2本合わせたところから広げると画面が拡大される、とか、すでにわたしたちの中にはそういう機械と付き合う感覚がしっかりと染み込んでいます。

この展覧会における小林健太の作品は、わたしたちと世界の間には、テクノロジーがあって、そのテクノロジーによって世界に触れられるようになった感覚、そして、テクノロジーがもたらした新しい自由を提示しているようでした。

 

このように、GUIを自由に操る能力を手にし、個人が発信者になれる場を獲得したことはインターネットが与えた新しい自由のひとつかも。

デヴィッド・ブランディチュートリアル:滅亡に関するビデオの作り方》では、youtubeにアップされているそれらしい既成の動画とTEDのトーク音声を組み合わせて、サクサクと世界滅亡に関するショートムービーを製作する様子が示されています。

ブランディは「こんな感じでいっかなー、ここでこうしまーす、ちょちょいのちょーい」くらいの感じで制作を進めていくのですが、実際に完成した動画に立ち込める危機感(と違和感)とは対照的に、お茶の子さいさい感がすごい。

手早くそれらしい動画を作れること、たくさーんのひとびとにそれを発信することができること…この作品で示されている自由には、少し不穏な雰囲気が立ち込めています。

 

 

このように、ここまではインターネットやテクノロジーが提供してくれた「自由」が描かれてきましたが、ヒト・シュタイエル《他人から身を隠す方法》が転換点となり、展覧会はインターネットとその向こうにいる大きな存在が、わたしたちの自由を脅かす可能性を提示していきます。

 

ヒト・シュタイエルはこの映像作品のなかで、爆撃機がミサイルなどを撃ち落とす際に照準を合わせるためのキャリブレーションターゲットのモチーフ(幾何学模様)を象徴的に繰り返し登場させています。

多分小学生のときに習ったことだった気がしますが、すべての技術は戦争によって発展する、ということを、この作品を見て、そうでしたそうでした、と思い出しました。

この作品では、デジタル技術によってわたしたちの生命が首根っこつかまれてるってことが示されます。

タイトルの通り、こうしたデジタル技術によるターゲットの捕捉から逃れるためには、わたしたちはデジタル技術のなかから消失しなくてはならないのです。

この前の作品までに見られた、テクノロジーの民主化による自由は、ほとんど幻想だったかのように思えてきます。

 

さらに、谷口暁彦の作品では、デジタル技術はわたしたちを民主的に強化してくれる味方ではないと確信せざるをえません。

監視カメラのコントロールができちゃうURLにアクセスできちゃったので、カメラを1カットずつずらしながらパノラマ撮影したちゃったよ、という作品。

監視カメラがいたるところに設置され、そのアクセスが解放されている状態は、誰もがオーウェルの『1984年』のビックブラザーのような存在になれる可能性もひらかれています(=ある意味自由)。

展覧会も後半になりこの作品にたどり着くと、テクノロジーは「支配する側」にとって都合のよい自由を発明し提供したのだ、という気づきとともに、不穏を通り越して、陰惨な気持ちになってきます。

 

続くサイモン・デニーによるブロックチェーンのPR映像では、「ブロックチェーン最高!」「ビットコインまじイケてる!」「これぞインターネットがもたらす民主化!」「国ごとの貨幣に代わる!」「脱・中央集権化!!」ってかんじでブロックチェーンのよいところをこれでもか!!と宣伝しています。

ですが、インターネットの世界においてGoogleに権力・利益・情報が集中しているように、こうしたブロックチェーンの技術も、実際のところはそれを開発し運用するひとびとに利権が集中する「再・中央集権化」に過ぎないことは、目に見えています。

つまり、インターネットは自由を解放し、民主化を促進させる、と思いきや、インターネット以前よりも大きく(かつ透明な)支配勢力を生み出しているのです。。わたしたちの自由、、、どこへ、、、、?

 

最後の展示室は、レイチェル・マクリーンの映像作品《大切なのは中身》です。

まずすでにタイトルが超皮肉っぽいですが、SNSの承認欲求を中心に、インターネットがひとびとや社会を蝕む様子をポップ☆グロ☆に提示しています。

鼻のない黄色い肌をした登場人物の造形は、絵文字の顔によったものなんだろうけど、わたし個人的には夢に出そうなくらい...ニガテ…

最初はキラキラ素敵なインスタ女子!だった主人公は、SNS(や荒らし)に翻弄されてぶくぶく太り、ぼろぼろになっていきます。「大切なのは中身」という言葉が切実ながらも虚しく響きます。。

 

この展覧会を貫くストーリーをなぞるかのような主人公の没落は、わたしたちが展覧会を見始めた時に抱いていた牧歌的なテクノロジーやインターネットへの希望、それらがもたらす自由への期待をサクサクと切り裂いていき、そして気づけばインターネットのある世界を生きるわたしたちの自由については、軽い絶望とともに諦めざるを得ない気分に。

 

この最後の展示室を抜けると、外から日差しが入る心安らぐ空間。

マクリーンの映像でまあまあ疲れて、やっとぬけたぜーと思ってベンチに座ると、暖炉のような揺れる焚き火が。

もちろん焚き火は映像で、エキソニモの作品です。

アメリカ(だったかな)には、テレビを(精神的な)暖炉の代わりにするために、24時間焚き火の映像が流れるチャンネルがあるそう。(そのチャンネルおもしろそう)

さて、エキソニモが作った焚き火の映像ですがよくよく見るとキーボードやマウス、モニターなどを燃やす焚き火の映像なんですね。。。人間の自由と文明の敗北を感じました。。。。終末感。。。

 

さて、ここでこの展覧会は終わりですが、元気を出して展示をもう1周しようとすると、再びペッパーくんが出迎えてくれ、さきほどの焚き火の映像では火葬されているようにも見えた「インターネットのある世界」でわたしたちが持てる「自由」について、「リバティー」ちゃんが不死を宣言し、勇気を与えてくれました!ふぅ、よかった。(また最後までしっかり見ると落ち込むから注意)

 

さて、6日で終わりの展覧会ですが、こんな豪華メンツを一挙に見られる展覧会は二度とないんじゃないかなーと思うので、水戸までデス☆ドライブした甲斐がありました。

 

この展覧会に作品を出しているアーティストはいまのアート・ワールドのトップを走っていたり、新進気鋭としてブイブイ言わせていたり、元祖!デジタル・メディアを使ったアーティスト!だったりと、本当に最重要のひとびとばかりです。

 

水戸芸術館|美術|ハロー・ワールド ポスト・ヒューマン時代に向けて

 

ぜひ他の展覧会でも「ハロー・ワールド」展の出展アーティストの作品を見る機会があればチェックして見てください!

備忘録でした☆(もっと早めに書く努力します)

 

今を生きる写真家と踊らない都市 - 「写真都市展」について。

こんにちは。

 

きょうは、21_21 design sightで開催中の「写真都市展 —ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち—」展についてです!

 

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あれいま何世紀だっけ?と思っちゃったんですけど、記憶違いじゃなければいまは21世紀。なので、「一歩先行く」的な用途での「22世紀」なんでしょうね。

 

今回の展覧会は、ウィリアム・クラインという「都市写真」の大巨匠を出発点にして、写真を通した新しい(都市への)アプローチを見ていく写真展です。

 つまり、今回の写真展の中心は、後者。「22世紀を生きる写真家たち」です。

「22世紀」っていうの、どうしても気に入らないんだけどさ。。

 

せっかくなので、クラインという大巨匠が撮影した都市と、いま、写真というアプローチで都市に迫ることについて考えてみたいとおもいます。

 

ウィリアム・クラインの写真を初めて見たのは、多分大学1年生の時、授業のなかでだった気がするのですが、おしゃれー、センスいいーと思った覚えがあります。

 

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確か同時に、ファッション写真の分野でも活躍した、という解説もうけてそれにも合点した(気がする)。

 

粗暴なインパクトで勝負しているように見えながらも実は上品でセンスがいいかんじで、(概念としての)銀座のがっつり系ラーメン?のような。

どろどろに濃いけど洗練された出汁がうまい、みたいな….....

アレブレボケの手法が煩雑なかんじを出しながらも、構図やポーズがとっても清潔だからなのか、そんな感じがします。

 

 

さて、今回、展覧会で改めてウィリアム・クラインの写真をまじまじと見て思ったのは、ダンスの写真みたいだな、ということ。

確かに東京で撮影されたシリーズは実際に舞踏家のひとたちを撮っているのでそりゃそーだって話なのですがそれ以外の写真についても、わたしはダンス写真らしさ、を見たのです…

 

先日、お仕事で膨大な数のダンスの写真から良い写真をセレクトしていて、それを見ていたときの感覚をクラインの写真に覚えました。

そのとき、ダンスの写真を見ていて思ったことは、ダンスは無限回数のポーズの連続だということ。

 もちろん、ここがキメポーズ!ってところが、多くのダンスにはあると思うのですが、ダンスは、写真にすることによってそこに至るまでのからだの動き、動きと動きのあいだの動きにも意識や意図が見えるようになるので、ダンスを撮った写真を見るのは楽しい経験でした。

 

じゃあクラインの写真がどう「ダンス」なのか?というと、ウィリアム・クラインが都市を撮ると、写ったひとの無意識やおそらく演出のそとにまで繊細な意識が宿っているみたいに見えてくる気がするから!

 

動きと動きの間の動きが写真で見えた時の「あ、見えた」あるいは「見ちゃった」の感じが、クラインの撮った都市にはあります。

 

つまり彼が撮ると「都市写真」が「ダンス写真」になる。

そういう意味で彼は「都市を踊らせる」写真家なんて言えるのかも?

ふ〜かっこい〜〜

 

 

と、ここまでクラインについて考えてきましたが、都市を踊らせる大巨匠と対になって紹介されている22世紀の写真家たちは都市とどう関わり合っていたのでしょう?

 

展覧会の「22世紀」セクションの写真を見て印象的だったのは、クラインの写真にあった「踊り」的要素がほとんどゼロだった、ということです。

 

ウィリアム・クラインが都市を踊らせるとき、それは写真によって達成されます。

彼の写真が、都市を空間としてではなくて、断片的な瞬間として輝やかせている一方、「22世紀」の写真は、「瞬間」とは全く違う時間のなかで都市へアプローチしていきます。

 

西野壮平や、安田佐智種の作品(特に「みち(未知の地」)は、複数回のシャッター、撮影者の物理的な移動、それらの統合によって作品の構造の中に複数の時間と空間を持ち合わせています。

 

須藤絢乃の作品にも、

1.過去に行方不明になった人(の写真)

2.カメラのまえでその写真になりきる私

という複数の時勢や人称が含まれています。

彼女の写真を、「都市」と結びつけるのはわたしには難しいんだけど。。

 

彼らとクラインとの違いで考えるならば、「22世紀」の写真には「あ、見えた」とか「見ちゃった」という感じはありません。彼らの写真を見た感じって、都市の「観察」に近いかも。

 

彼の写真を「見る」行為は、瞬間の「あ、見えた」的発見とはちがって、「観察」のように持続的に発見が続いていく感じがあります。

 

そういう「22世紀」の写真は都市を踊らせることなく、写真で都市の持つ空間とか時間を積み重ねて、組み立てて、写真の中で蠢めき、息づく都市をふたたび作り出しているのです。

 

このように、この展覧会においては、写真が空間や時間を圧縮するだけではなく、空間や時間を組み立てて、多元的な都市の実像に近づいていく方法のひとつになっていたんですね。

 

ところで。

先にややじゃっっかんふれた「22世紀」問題にふれておきます。

わたしが「22世紀」のなにが気に入っていないか、というと、今回「22世紀」の写真家と呼ばれた彼らを、特異性のある未来志向の写真家あるいはアーティストとして扱うことにぜーんぜん納得がいかないからです。

だって、彼らは紛れもなくいま、この現代、21世紀に生きているし(22世紀になったときにも生きているかもしれないけど)、彼らの写真を通した都市へのアプローチをいつか必ずくる「未来」の表現と位置づける写真観、ノスタルジックすぎませんか?何時代?て感じ。 

 

クラインの写真は、いま見てもフレッシュに目が喜ぶ感覚がありますが、あれが過去のものであることは明確だし、(かといって古いから悪いとも思わないけど)

クラインとは全く別の仕方で「写真する」のが2018年の写真家なのだとわたしは思っていて、そこにこそ、いま、まさにこの「今」の写真にこそわたしが写真のおもしろみと感じるものがあります。

 

「現在」や「現代」や「写真」という言葉には、複数の見方があって自分をどこに位置づけるのかはもちろん自由ですが、わたしはどうも、彼らを「22世紀を生きているようだ!未来志向だ!」として賛美するよりもっとよい判断のしかたがあるのではないかと思ってしまいます。

 

つらつらつらつら言ってますけど、写真のいろいろな可能性を見られる楽しい展覧会でした!(まじで)

6月まで開催しているようですので、ぜひです!

 

www.2121designsight.jp

 

よかったら、みなさんのこの展覧会の感想もききたいなあ!

 

 

あと、さいごのさいごに...

 

今週、先週と、荒木経惟の件で、写真の世界は大変動揺していますね。

せっかくいまブログを書くのにこのことを無視するのもいやだったので、ひとこと。

me too運動を巡るいろいろな人の意見に傷ついたり鼓舞されたり、自分のなかのダブルスタンダードに反省しつつも、わたしは私写真の終わりを支持します。

リクエストをいただいたので、近いうちにこのことをまた書くかもしれません…

 

ではまた!

「現象としての写真」をアップデートする -「most liked photo」について 

今回、作品を作って発表する機会に恵まれたので、4億年ぶりに作品をつくってみました!(助手展にだしてます)

 

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わたしが出展している「most liked photo」という作品は、instagramの画面をキャプチャーし、顔はめパネルにした作品です。

 

今作「most liked photo」では、現象としての写真の、現代の姿について考ることを試みています。

 

ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』をはじめ、写真は現象としてもたびたび論じられてきた表現メディアです。

『複製...』では写真が絵画や彫刻などの芸術作品が持つ「アウラ」を奪い去ってしまう現象について論じられています。

ここで論じられているのは写真の登場と普及による影響ですが、その後も写真は技術革新によって、時代の節を作るように、時の文化や産業に大きく影響してきたのです。

このように写真は「もの」としてだけでなく「こと」として、理論的に扱われてきました。

 

さて、現代の写真の「こと」を考えるとき、SNSソーシャルネットワークサービス)での写真の使用は避けることができないトピックだと思います。

とりわけ、Instagramは写真を中心にしたSNSで、写真の作られ方から受容のされかたまでを大きく変えました。いまやインスタは多くの人の写真を撮る動機でもあり、目的でもあり、発表の場でありながら撮影・製作の場でもあります。

ところで、いまどきの中高生は、スマホで写真を撮ることを、撮った写真をインスタにあげなくても、「インスタする」と言うそうな。動詞にまでなっているのですね。わたしなんかついつい「写メ撮る」とか言っちゃってそのたびに世代とかいろいろ...感じてしまいます...

 

こんな感じでわたしは以前から、instagramが写真を変えることや、instagramが変えた写真がわたしたちの生活や暮らしを変えることについてすごく興味があったので、このブログのなかでも、instagramについて書いたことがあります。

 

yzgz.hatenablog.com

 

もう3年前になるこの記事でわたしは、インスタグラムは新しいファッションのかたちなのだ!と言っています。

要約すると、何を着る?よりも、だれと、どこで、なにをしたか?がいまのファッションなのであり、それを表明するツール兼場所としてinstagramは機能している!ということ。インスタグラムは、写真を鎧に変えたのだ!ウォー!と主張しています。

 

今回の作品「most liked photo」では、写真を「こと」として考える方法をアップデートするとともに、instagram(や他のSNS)が可能にした鎧としての写真を、鑑賞者のみなさんにインストールしてもらい、鎧としての写真の姿を目に見えるかたちにすることも試みています。

 

顔をはめても楽しいですが、顔が抜かれた状態もまた鎧としての「写真」が際立つかなとおもうので、思い思いに楽しんでくださると嬉しいです。

(鎧って言うより見た目は盾かも....)

 

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2月19日から25日までです。最終日にはアーティストトークもある模様です。。。

  

短い会期ですが、他の助手さんたちの作品も大変素晴らしいクオリティになってますので、ぜひです!

 

スパーーーク!する!写真的モチーフとの出会いー 石内都「肌理と写真」@横浜美術館

 

ご無沙汰です。

あけましておめでとうございます。

うっかり年を越して、気付いたら1月も終わっててびっくりしてます。

 

今年のはじめに石内都「肌理と写真」を見てきました。

 

yokohama.art.museum

 

石内都(いしうち みやこ)といえば、木村伊兵衛賞ハッセルブラッド国際写真賞、紫綬褒章を受賞していて、この受賞歴にも明らかなように文字通り日本を代表する写真家。

 

今回の展覧会を見ていて思ったことは、石内さんの扱うモチーフ(被写体)って「写真的」!ということ。

写真的ってどゆことー?ですよね。いまから言います。

 

わたしは、初期のモノクロ作品から、近年の遺品や衣服などのシリーズに至るまで、彼女の写真からは、「触れるとかたちが変わってしまうもの」に対する興味(むしろ執着)を感じます。

朽ちたアパートの壁の塗装や、皮膚に残るしわ、衣服や布のしわ、などなど。

石内さんの写真のこういう被写体の選び方を見て、写真的だ、と感じます。難しく言い換えると、彼女は指標(インデックス)的性質のあるものを追っている。

 

たとえば、ベッドにできたシーツのしわは、そこに誰かがいたことを示すものです。

 

しかもそこに残る痕跡はとてもオリジナルだし、似たようなしわはできるかもしれないけど、わたしだけの、今夜だけの寝返りが、翌朝の二度とないしわを生み出すのだと思うと、なんだかしわもロマンチックなものに思えてきちゃう。

 

そしてその「しわ」は、触れたり動いたりすると「かたちが変わってしまう」はかないものです。(とても神経質になればそのシワを撫でたりすることもできたりするけど、超繊細な手つきにならざるを得ません。)

石内さんは、二度とない一瞬を光の痕跡で保存する写真のように、誰かの人生や時間の経過を受け止めて保存したものたちを選んで撮影しているのですね。

 

ロラン・バルトが写真について、「かつて、そこに、あった」を示すものであると述べたように、衣服のシワもまた、なにかが「かつて、そこに、あった」ことを示すもの。と、なると、彼女の写真は超写真的写真ってかんじ。いや痕跡的痕跡?

 

 

ただしそれらが、彼女の場合、彼女が受けた感覚や興味の方向がかなり色濃ーーく反映された写真になっていて、それらを丁寧に保存し、伝達するために撮影する、という感じではなさそうなことも、こうして一挙に彼女の作品を見て強く感じたこと。

 

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たとえば彼女の撮り方は、被写体が静物なのに水平、平行も不安定だし、正対もしません。寄ったり、離れたり、被写体が画面におさまらなかったりもします。

丁寧に「かつて、そこに、あった」ことを保存することが目的なのであれば、こんな撮り方はあまりしないものです。

 

保存していつか伝えることがしたいなら、こんなに客観的でない構図にはならないんじゃないか、と思います。

彼女の写真はとても主観的で、彼女自身の「こう見たい」「ここが見たい」が超露骨。

 

そこに彼女が「写真的」なモチーフに対する純粋な興味に突き動かされて写真を撮っていることを感じ取れるのです。

 

 

さて、彼女のこうした「写真的な」モチーフとの出会いと、モチーフの持つ歴史がスパーーーク!したことで、彼女の国際的な評価をババーン!と高めたのが「ひろしま」のシリーズ。

ひろしま

ひろしま

 

 

今回の展覧会でも、最後の展示室に彼女の集大成的な一作としてデデーンと鎮座していました。

 

ひろしま」シリーズは、広島平和記念資料館に収蔵された原爆の被害者の遺品を撮影した作品です。

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ひろしま」における衣服のシワは、そこに生命があったことを思い出させるし、ほつれや染みや破れた穴を見ると、そこにあった生命が事実として完膚なきまでに打ちのめされて失われたこと、その痕跡が示す明らかさに、物理的に胸が痛くなります。

 

石内さんの持つ衣服やそのしわへの興味と、衣服がまとう歴史の完全な一致が、切実な反戦のメッセージを発しているこの作品は、まさに奇跡の出会いスパーーーーク!!です。

 

 

だけど、 わたしは「ひろしま」を見ていると、被写体が持つ歴史よりも、しわや衣服の素材感など、石内さんの局所的な興味のほうが優っている気がしてしまう。

広島である必要があったのかなー?と。

 

ひろしま」以前の彼女の作品を見ていると、パラパラ落ちる塗装とか、ぼこぼこ、しわしわ、みたいな肌触りのあるもの(つまり肌理!)への純粋な、無邪気な関心が写真に充満しています。

 

だけど、どうも「ひろしま」は、彼女の無邪気で強いモチーフへの関心を鑑賞するには「広島」の歴史とそのイメージが強すぎるし、この写真から「広島」に思いを寄せるには彼女の肌理への執着が強すぎる。

彼女の作品のなかでは、作品と社会(歴史)がつながり大きな広がりを持つようになった意欲作と言えるかもしれないけど、実際のところ、彼女は変わらず自分の興味を探求し続けているんだな、と感じます。

 

実際、こちらの👇インタビューによると、やはり、「ひろしま」は、編集者さんの、「広島」を撮ってみませんか?という話から始まったシリーズのようですね。

www.magazine9.jp

 

石内さんの言葉を読んだり写真を見たりすると、どうやら彼女はカメラを通して被写体と会話をしているようです。無邪気。

それは、きっとこれまでもそうだったんだろうな。

 

彼女がこのインタビューで「わたし自身は広島となんの関係もなかった」という趣旨のことを語っているように、この出会いは偶然だけど、だからこそ尊いとも言えるのかも。あのような強い作品ができるなら。

写真家の興味と被写体が持つ歴史の出会いは奇跡だし、「広島」の恐怖を広く強く伝えて人々の目を開かせる力は、原爆ドームのあの骨組もよりも、もしかすると強いかもしれません。 

 

わたし個人としては、彼女の写真は「ひろしま」以前の、誰かや何かの痕跡の残る「肌理」への純粋な興味に満たされた超写真的写真におもしろさがあると感じていたから、「ひろしま」はなんとなくやや意味が多すぎてしまった感じがしちゃいましたけど、

ひろしま」までの写真的モチーフとの選択、そして、「ひろしま」でのモチーフとの出会いを見ると、彼女は写真的なモチーフに愛された写真家なんですね!

 

あ、あと、最後に。

そういえば、初期のモノクロの作品は粒子が荒い、いわゆるアレブレ的な作品でしたが、そのザラザラ感もまた、肌理ですよね。

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肌理の「ある」ものを、粒子(肌理)を際立たせた写真にすること、こっちは肌理的肌理写真ってかんじ。キメキメ?

 

 

3月4日まで。横浜美術館です。ぜひ!