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おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて私にわかるように書いてます

アールデコ建築でスピる?- ボルたんの「アニミタス – さざめく亡霊たち」展

 

東京都庭園美術館で、クリスチャン・ボルタンスキーの展覧会「アニミタス – さざめく亡霊たち」を見てきました。

 

www.teien-art-museum.ne.jp

 

ボルタンスキーといえば、もう現代美術の世界ではスーーパーー巨匠クラスで、日本でもいくつかの恒久展示があるし、とても見ごたえのあるアーティストだと思っています。

彼はホロコーストに影響を受けて死や亡霊をテーマに作品を作っていて、無名の人の写真・古着、そして音や風などを、作品を作るときの道具にしています。写真も古着も、人の生きたこと・死ぬことを思わせるとても強いアイテムですし、音や風はその演出に大変な効果があると思います。

 

わたしは、豊島の心臓音のアーカイブでとても感動したし、大掛かりな舞台セットのような作品(越後妻有の《最後の教室》など)は、現代美術をあまり見たことがない人にも、インパクトのある「現代美術のよい思い出」にできるような体験を提供してくれるアーティストだと思っています。

 

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そして、今回の「アニミタス – さざめく亡霊たち」展は、素敵なアールデコ建物である目黒の東京都庭園美術館で開催されるとのことで、美術館の場とかその場の記憶みたいなものに、寄り添ったよ、という体裁をとっています。

(ちょっとボルタンスキー長いので、ボルたん、と呼びます。)

 

体裁をとっている、と申しましたように、わたしは今回の展覧会、正直あんまり満足のいくものではありませんでした。

 

展覧会全体を通して印象的だったのは、ボルたんのインタビューです。

原文ままではないですが、ボルたん曰く、

「実際に見るより、その作品のことやその作品が存在していることを知っていることの方が意味がある」とのこと。

 

これは、インタビューの中で、展覧会のタイトルになっている作品《アニミタス》についてボルたんが語っていたことです。

 

f:id:yzgz:20161108193603j:plain(《アニミタス》)

 

《アニミタス》は、チリのアカタマ砂漠に、ボルたんが生まれた日の星と同じように配置された日本製の風鈴が風に鳴る様子を撮影した映像作品です。

アカタマ砂漠は、地球上で最も乾燥している高地で、そのために、すごく星が良く見える場所なのだそう。

だけど、その標高2000mの土地に、人が頻繁に訪れることはなく、その作品は、ほとんど映像でしか見ることができない。

 

ボルたんがその《アニミタス》という作品について「実際見ることよりも知ってることに意味がある」と語ったことは、今回の「アニミタス」展全体について語るときにも当然通じるところだと思いました。

ただ、今回の「アニミタス」展について言うならば、「実際にこの展覧会を見るよりも、ボルタンスキーの他の仕事を知っていてようやく意味がある」と言いたくなるような感じ。

 

例えば《帰郷》という作品。

《眼差し》という作品の中にあるのですが、急に会田誠の作品(↓)が出てきたのかと思いました、、、、実は金色のエマージェンシーブランケットで古着の山を包んだもの、だそうです。

 

f:id:yzgz:20161108194139j:plain (会田誠《おにぎり仮面》これにそっくりの作品があるのです)

 

先ほども書いたように、ボルたんといえば、古着はおなじみです。

人の気配と同時に不在を強く感じさせることのできる古着を使った作品は、本当に強烈なインパクトで、心がざわつきます。

 

f:id:yzgz:20161108193922j:plain(越後妻有《No Man's Land》わたしはハウスダストアレルギーなのでこれはめっちゃ鼻水出そう)

 

しかし、今回は古着の山がエマージェンシーブランケットで完全に覆われています。

この作品は、ボルたんの古着の作品について知っていてこそ、その意味が際立つ作品だと思う。もちろん美術に少し関心のあるひとなら知っていると思います。でも本来、ボルたんの作品で古着が想起する生死の気配を拭ってしまってはいないでしょうか。。。ここでボルたんの作品をはじめてみる人には通じないんじゃないか?そういう人は観客として想定されていないの?

うんこ、うんこ、って部屋のいろんなところから聞こえてきたしさ。。。

 

おびただしい数の古着を見た時にはホロコーストや、日本人だと毎年起こっている災害のことを想起しますが、それを、1枚(に見える)エマージェンシーブランケットで覆ってしまったときに、ひとりひとりの命や精神の重要性が際立ってくるとは私にはどうも思えない。

作品解説には 

この作品が初めて発表されたメキシコの都市モンテレイは外国資本が多く入る有数の裕福な都市ですが殺人事件が多発する最も危険な街でもあります。その姿は唯一無二の存在感を放ち、富をもたらすと同時に災いの元にもなり得る“黄金の山”の表裏を思い起こさせます。一方で、持ち主不明の大量の衣服の山にエマージェンシーブランケットで覆う行為に、一人ひとりの生死を残酷なまでに等しく見つめるボルタンスキーの一貫した眼差しも感じられます。(一部抜粋)

 と、ありますが、、、、

 重症の患者にかけるブランケット、メキシコの危険な都市、黄金、古着、無名の多くの人の生死。。。とりあえず全部詰め込んではあるけど、どうもクリアにつながってきません。。。(やっぱりわたし鈍感なのかな)

 

その《帰郷》のまわりにあった《眼差し》という作品も、なんだか、写真の持つ生と死の感覚みたいなものをうまく反映できているようには思えませんでした。

 

写真を材料として使う場合には、写真の「真実」という要素や「証明」という社会的役割だとか、いろんな引き出しがあります。

ボルたんは、ずっと人物の写真を使用しているので、写真が想起させる「被写体が確実にこの世に存在していたこと、そしていまはもういないかもしれないこと」という「人間の生死」の気配が、彼の写真についての関心事だったのでしょう。

 

この《眼差し》では、証明写真の目の部分だけが拡大されて軽い布にプリントされていて風にふわーっと揺らぐのですが、この写真の使い方にはちょっとフィクショナルでエンターテインメントっぽい「亡霊」っぽさを感じてしまいました。

あるいは。ホラー映画で幽霊出てくるときってなんかいつも風吹いてるよね!!!みたいなテンション・・・?

 

f:id:yzgz:20161108194429j:plain(《眼差し》とわたし)

 

(カルチャー系シティーボーイアンドガールのフォトスポットとしては、インスタ映え間違いなしです。)

(平日は写真撮影ができるので、空いてるし、おすすめ!)

 

それよりなにより納得がいかなかったのは、《さざめく亡霊たち》でしょうか。

今回のこのあんまり気に入らないっていうテンションはそもそも、この↓インタビューを読んでいて、美術館に行く前からボルたんなんかスピってねえ?と思ってた、というのもあります。

旧朝香宮邸で「亡霊」たちの声に耳を傾ける 東京都庭園美術館でボルタンスキーの展覧会

「旧朝香宮邸を訪れて、昔のパーティーで人々が踊っているのを感じました」、、、!?!?)

角度をしぼったスピーカーからの音声で、耳元でささやかれているように聞こえる《さざめく亡霊たち》は、ちょっとボルたん様、お名前の看板に頼りすぎてませんか?という気がしました。

 

彼なりに美術館の記憶、そこで暮らした人(の亡霊)に寄り添ったり、対話したりしてできた作品かもしれないけど、関口涼子さんによる「さざめき」のセリフもなんだか肝試し風だし。

あの耳元でささやかれているような感覚と、美しいアールデコ建築だけでは、解説のように「歴史とは「事実」の連なりではなく、もっと複雑で重層的なものだということを思い起こさせ」てはくれないんじゃないかなあ。。。

でも、あの指向性スピーカーは不思議体験。びっくりできて楽しいかもしれません。。。。

 

と、まとまりませんがこんなところで今日はおしまい。

ボルたん自身もインタビューで「ほとんど子供じみた遊びです」と語っていた《影の劇場》でおわかれしましょう。

 

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なんかこの言葉、展覧会そのものに当てはまっちゃってんじゃないだろうか・・・と不安になりますが・・・・。

今回の展覧会はさておき、ボルタンスキーは現代アートの大巨匠ですし、素敵なアールデコ建築で作品を見ることができるのは寒空のデートにぴったりではないでしょうか!

最後のインタビューまで見るとより楽しめると思いますので、インタビューはじっくり時間をとって見るのがおすすめです。

とても楽しめたという人がいればオススメポイントを教えてください!

12月25日まで。ぜひです!

 

わー修論かかなきゃ〜〜〜(泣)

 ではまた!

ボブ・ディランのノーベル賞受賞に思ったこと - 「文学」のふしぎ

実のところボブ・ディランには特別な思い入れはないし、わたしはとても読書家というわけではないんだけど、本を読むことは好きだし、文学というものも好きだと思う。

 

たぶん、文学よりも「これぞ、文学だ!」と、言われている映画とか漫画、美術作品、いわゆる、「文学だといわれている文学以外のもの」が好き。
「これぞ、文学だ!」という言葉は、文学に使うこともあるだろうけど、
ふしぎに形容詞的な、なにかしらの雰囲気を示す使い方をされている言葉ですよね。


最近だと田根剛の建築について杉本博司が「文学的な建築」だと言っていて、なんとなーくエストニア国立博物館、確かに文学っぽい建築かも、としっくりきてしまいました。

 

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  (あんまりいい写真がないみたい。詳しくは情熱大陸の動画を、、どこかに落ちてるはず!)

で、ノーベル文学賞を、ミュージシャンが受賞したわけですがこれまた、文学だといわれている文学以外のもので、、、「文学」って言葉にちょっと酔ってきました。

 

たぶん、ボブ・ディランが賞を授与された意図は、文学の概念の拡張なんじゃないかなと思っているんですけど、
現在のノーベル賞のカテゴリーの中で美術や音楽は(たぶん平和っぽいもの以外)賞の対象にできないなかで、ノーベル賞が与える文化的な賞のカテゴリーが文学賞であることはなかなかにおもしろいことだと思います。

 

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 イケてる。。。

 

 ただやっぱりそうなると、文学ってやっぱりほかの芸術よりも上位っぽい感じがなんとなくするし、そうなると、「文学的」は最上位の褒め言葉ってことなのかもしれない。


そして、ノーベル文学賞はそのうち、「文学的な文学以外のものにも『文学』という最高の褒め言葉を与える」賞になるのかもしれませんね。

じっさい、経済学以外の賞は、ノーベルさんの遺言によって設立されているようなので、ノーベルさんが文化的なものの至高のものを文学だと思っていたのかも。


というのも最近、「写真とはなにか?」という2013年の(最近!)の論文を読んでいたら
サルトルの「文学とはなにか?」が発表された時(1948年)の文学の状況が、現代の写真の状況に似ているよね、という内容で、なんだかホットに感じたからなのです。

 

実際、文学の概念の拡張や転換、戦前までの文学に対する疑いは、戦後の混乱のヨーロッパにおいて、1948年には言われていたことなんじゃないかなと思うんだけど、ボブ・ディランノーベル賞受賞によって、狭くて、敷居の高〜い文学理論から、ようやく昨日、(約70年後に!)世間一般の理解の範疇に浸透しはじめるんだと思います。


先日トーマス・ルフ展について書いたとき、「最近の写真は、写真という概念を拡張している」と、書いたのですが、全世界が注目するノーベル賞で大胆にも文学の概念を拡張する文学のポピュラーさには、ボブ・ディランをよく知らなくても素直に、すっきりとした心で喜べます。

 

対して写真の概念の拡張は、現代美術の世界のなかで、いまひっそりと行われているところ。あるいは、ようやく写真の合成が当たり前になった中で、じわじわと拡張しているところなのかもしれません。

 

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 (フォトショでぐにゃぐにゃ背景の紀香 ) 

 

フェイスブックとかのSNSでは、おもしろ写真とかびっくり動画、あと、めっちゃかわいい女の子とか。見ることがありますが、それを見て合成だった時の「がっかり感」、それこそが、わたしたちが写真に期待する写真の姿なのだろうと思います。

その「がっかり感」がなくなったときが、写真の概念の拡張や転換が一般的になった、といえるのかもしれませんね。

 

まあいまから70年かかるかもしれないけど、その頃に写真ってあるのかな。。。?
文学か、「文学だと言われている文学以外のもの」はあるかもね。

あるといいなー。

 

と、結局写真の話になりましたがきょうはこのへんで!

では!

明日、世界が終わりませんように!(シン・ゴジラとロスト・ヒューマン)-- 杉本博司「ロスト・ヒューマン」展について

 

東京都写真美術館、通称「としゃびorしゃび」ですが、リニューアルして通称が「TOP MUSEUM」に変わったようです。TOPって!大きく出たねこりゃっ!

ってことで、杉本博司「ロスト・ヒューマン」展見てきました。

 

最初から最後までおもしろく、わくわくしっぱなしだったのですが、このわくわくしっぱなし感、最近なんか味わったぞ・・・・。と、思ったら、映画「シン・ゴジラ」でした。

実は、私はこの夏、シン・ゴジラにドハマリしていて4回も見ちゃったのですが、今回の「ロスト・ヒューマン」展、シン・ゴジラの、特に前半部分の興奮に似ていると感じました。

 

想像し得る最悪の状況、既視感のある災厄、うまく対応しきれない政府や専門家。

そしてそういうリアリティーを産む細かい描写と、破壊の美しさに、頭がぼーっとしちゃう感じ。そして張り巡らされた圧倒的情報量によって頭がくらっとやられて勝手にノッちゃう感じが、シン・ゴジラの熱狂ポイントであり、それは「ロスト・ヒューマン」展〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉のおもしろさそのものでもあると思うのです。

 

33の終末の物語 + 杉本博司の過去の作品 + ファウンド・オブジェの3つの要素で構成されている〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズは、これらが絡み合っていろんな論点を匂わせていて、ひとつひとつのストーリーが充実しすぎてて、もう全部論じきれないよ!!(ってとこもシンゴジラに似てる)でも、超おもしろい!楽しい!わくわくしっぱなし!って感じでした。

 

まー、論じきれないよ!とか言ってるのもちょっとあれなので、今回わたしは、やっぱり、「写真美術館」という場所で開催されたことを含めた、写真という杉本博司の原点に立ち返って考えたいと思います。

 

f:id:yzgz:20160921215627j:image  (こちらは昨年の千葉市美術館での展覧会の写真)

 

今回、存在感を発揮しまくっていたファウンド・オブジェ(既製品を持ってきてそのまま展示するスタイル。)の数々ですが、写真家として活動を始めた(であろう)杉本博司なのだから、それらのオブジェを写真にして展示することもできたはずです。

そもそも、写真にはファウンド・オブジェ的な性格があります。

被写体の風景や姿を写真にとることで姿を借りて再現するというのは、写真の用途のひとつです。(たとえば、遺影なんか、まさにそうです)

でも、それをせずに、実物を持ってきてそのまま展示したということは、(若干存在感薄まっちゃった感じもするけど、)彼自身の写真作品、そして彼が写真でやってきたことにメッセージを込めたかったんじゃないかな、と思うのです。そして、33の物語にリアリティを持たせて、私たちに文明の終わりを想起させなかったんじゃないかな。と。

 

杉本先生は「写真のできること」にすごく自覚的です。

写真が過去のある地点・ある部分の時間をパッケージしたものであることは、事実。

そして、写真が撮影者本位に被写体や時間を切り取ることのできる、虚構であることも事実。

 

だから、もし、ファウンド・オブジェの数々を写真にしてしまうと、それらのグッズに過去だの未来だのの時間を与えてしまうし、うそっぱち(虚構)であることを強調する結果になってしまいます。

 

だけど、杉本博司のこれまでのシリーズでは、とっくに死んでいる歴史上の偉人に実在感をもたせたり、映画1本を写真にしてしまったり、ジオラマを撮影して虚構を現実に見せてしまったりして、「写真のできること」をひっくり返してきました。

 

f:id:yzgz:20160921215808j:image   (こちらも上の写真同様)

 

 そして今回は、とうとう、未来を写す写真に挑戦したのだと思います。

トーマス・ルフも別のやり方で同じ試みをしていましたね〜。) 

 

yzgz.hatenablog.com

 

ただ、写真のできることに自覚的な杉本博司らしく、

33の終末の物語 + 杉本博司の過去の作品 + ファウンド・オブジェ

の組み合わせによって、〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズは、写真美術館の他の展覧会では出会うことのできないであろう「未来」を見せてくれたのではないでしょうか。

 

2Fの新作「廃墟劇場」は、この「ロスト・ヒューマン」展のなかでどういう位置づけにあるのか、もうちょっと考えたいな、というところなんですけど(ごめんなさい)。。。

 

あと、三十三間堂は、本当に狂ってて京都でも好きなスポットのひとつなのですが、そこで撮影された「仏の海」シリーズも、大好き。

信仰の対象を量産して、俗世の不安を取り除こうとして作られた三十三間堂の仏を、写真に撮って複製するってもう、「仏が海じゃ〜〜〜〜ん!!!!」状態なんだもん。 

ずーっと眺めていたいし、三十三間堂に行きたいなあとも思いました。〈今日 世界は死んだ もしかすると昨日かもしれない〉シリーズの比較宗教学者のパートの物語の亜種としても読めそうですしね。

 

あと、〈今日 世界は死んだ .......〉シリーズの中で一番好きなのは、、、迷うところですが、「世界保健機関事務局長」なんだけど、こんなこと、庵野秀明の「巨神兵東京に現る」で言ってたような気がするんだけど、、気のせいかな?

 

でも、シリーズの中でどれが一番好きかって話でふつうに盛り上がれそうで、それもいいですね。

 

そういえば、あの代筆者リストも、シン・ゴジラのエンドロールっぽくない?びっくりしたり「あ〜」ってなるようなキャストや制作協力者・関係者がいる感じ。。。

 

とにかく色んな楽しみ方ができそうです!

 

杉本博司「ロスト・ヒューマン」展は、11月13日まで。

芸術の秋にぴったりの、誰でも楽しめる展覧会だと思います。

まず、展覧会の会場入って度肝ぬくよ!こんなの初めて・・・って人が多いんじゃないかな!

 

www.topmuseum.jp

 

いったらどのパートが好きだったか、お話しましょう。ぜひです。

 

ではまた! 

強め☝︎☝︎な地盤と芸術祭ー 瀬戸内国際芸術祭 2016夏期間

 

夏休み、瀬戸内国際芸術祭にいきました。

2度目の瀬戸内で感じたのは「安定・安心の!瀬戸内国際芸術祭!」ってこと。

(詳しくは⇨ 瀬戸内国際芸術祭 2016)

 

 いまや地域おこしとして定番化しつつある地方の芸術祭、いわゆる地域アートですが、瀬戸内はその元祖といったところ。

草間彌生のカボチャ、大竹伸朗のI♡湯などなど、インスタ映え(SNS映え?)もめっちゃするから、おしゃれ国内旅行スポットとしても確立しつつある気がします。

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今回わたしは去年行った越後妻有の芸術祭と終始比べてしまい、今美術界隈で話題の「地域アート」も一括りにはできないなあと感じました。

地域アートって越後妻有トリエンナーレくらいしか行ったことないんですけど、結構対称的だったように感じました。

 

瀬戸内国際芸術祭に安定と安心をもたらしているのは、なんと言っても瀬戸内の島々の「強さ」によるところが大きいと思います。

 

長い歴史を持つ醤油製造、日本一の生産を誇るオリーブ、(センバツ出場の)小豆島高校、映画「二十四の瞳」映画村、、などなど。

小豆島は強い産業、観光を持っています。確かに人は少なかったけれども、美術にすがる必要などないように見えて、そういうしっかりとした強い地盤に支えられた美術、それを見る体験の安定感を感じました。

 

過疎地域を活性化させるためのアートツーリズムには、その地方都市をめぐるセンチメンタルな事情がつきまといがちですが、私が滞在した小豆島では特に、センチさは感じられなかった。

 

小豆島周辺の、今回訪れた直島、豊島、以前訪れた犬島などの島には、その島の名を冠したハードな美術館が立っていたり、一定以上の評価を得ている作品が恒久的に展示されるなど、強気な美術館があります。

 

例えば、越後妻有はハードな美術館らしい建物は1つしかなかったし、(頑張って数えても2つ、、、?)、それ以外はほとんど、家主を失った空き家や廃校で、思い出や人の影とかを否応なくまとってしまうソフト的な機能を持つ場所・地盤でした。

 生活の記憶が残る場所にアーティストも触発されるのでしょうか、センチメンタル、むしろ肝試し?みたいな作品や空間も多かった。

 

越後妻有アートトリエンナーレ『大地の芸術祭』 - おとといまでの私にわからせるためのブログ

 

文字通りそれらはソフト〜な地盤なので、不安定で、芸術作品の足場としても、芸術作品を見るわたしたちの足場としても弱くて、芸術作品を見ているのかどうかわからなくなったり、作品が場の持つ雰囲気に飲まれてしまっているような気がしました。

 

f:id:yzgz:20160914093400j:image(かろうじて残っていた写真:塩田千春の古民家を改装した作品)

 

一方、 産業や観光地の丈夫な地盤を持つ強い場所である小豆島は、美術を見る足場がしっかりと用意されていると感じました。

美術作品自体にも余裕があって、鑑賞する側の自由が担保されているかんじ。(もちろん、すべての作品がそうだというわけじゃありません!)

 

過疎による廃校、空き家を使った作品にはどうしてもそれ以上の読み方が難しくて、鑑賞の幅が狭まってしまって、批評のしようが無い。

 

それは例えば、自分が上司の子供のピアノの発表会に行ったとして、演奏がもしド下手でも演奏が成立していなかったとしても、なんも言えねぇ、、、な、感じではないでしょうか。

その地域の人たちの苦悩そのものに立脚した作品について、何か感想が言えるんだろうか?地域アートにはそういう、上司の子供的な無邪気さと圧力があるのは確かです。

更に、それが過疎の問題となると、うまい、へた、はともかく、好きも嫌いも許されなくなる。

 

瀬戸内はそういうぬかるみのような、何の感想も立たない場所ではないところが、わたしは好きです。作品を、親戚の子供の発表会くらいの距離感で自由に鑑賞して、物言える雰囲気がある。

 

しかしそれは、悪く言うと、アートを見るための地盤がコンクリートで固められているようでもあります。

 それがどういうことなのか、というと、ほとんど東京のようだということなのです。

(実際、現地で案内をしていた人たちは都内の美大生も多かったみたい)

 

東京とか、ニューヨークとか、ロンドンのような大きな安定した都市にある、堂々としている美術館や作品の置き場として、瀬戸内が東京的アートの植民地みたいにされちゃっている、とも言えるかもしれません。

 

地域の名前を冠してるからって、なにもそんなにズブズブの関係にならないでいいじゃないか、と去年、越後妻有で去年思ったことに対して、

瀬戸内は、地域とアートがズブズブにならないバランスで成立していた、とわたしは思ったのですが、もしかすると、地方で芸術祭をやる以上、ズブズブの関係になる方が望ましいのかもしれない。。。

 

いまや地域アートは日本の現代美術と地方創生を担う存在ですから、今後も増えるだろうし、更に議論も重ねられていくことでしょう。 

 

地域アート――美学/制度/日本

地域アート――美学/制度/日本

 

 

 

あ、そういえば、島の美術館ではよく「静寂も作品ですので」とか言われたけど、話しながら見たほうがおもしろいのにな。。。うるさくするのはよくないけど、「静寂も作品」って脅しっぽくてなんか窮屈でした。

 

(ここは確かに静かにみたいけど↓)

 https://www.instagram.com/p/BJg7MIFBoi0aegPfytCxx0_MMdb1DpHdC_5HEs0/

 

あと、えらく感動したのは、片付けようがないくらい星が散らかっちゃってる星空!!天の川とか見たのいつぶりだー!という感じでした。

しかもそのまま視線を落とすと波打ち際に青く光るくらげ・・・!

アート関係ないけど(笑)きれいだったな〜。

 

最後の写真は、小豆島で泊まった小豆島国際ホテルでのバーベキューの様子。

ケツメイシとか流れててエモかったです。

 

https://www.instagram.com/p/BJh2XqKhsqpbLoW-VpnYer0hWn2Sx8BIy36wUg0/

 

では!

 

写真の表面張力 - トーマス・ルフ展@国立近代美術館

 

ちかごろの写真は、「もう写真じゃないじゃないか!」と言わせることが目的なのだといっても全く過言ではないと思います。

 久しぶりに写真特集をしている美術手帖には、あの、わたしたちが知っている「写真」から遠く離れ、それでもなお写真と名乗っている作品が数多く紹介されているのですが、今回のトーマス・ルフ展と合わせておすすめしたいです。

 

美術手帖 2016年9月号

美術手帖 2016年9月号

 

 

この特集に登場する写真は、まさにギリギリ「#photograph」。

タグを付けて写っているものを主張するインスタグラムの写真みたいに、作品自体がこれは「写真である!」と名乗っているみたいです。

 そして、紹介されている写真家・アーティストたちはまさに、「写真(という概念)を拡張している」といえます。

 

トーマス・ルフは、そんな、「写真を拡張する」写真家たちの先頭に立ちながらも、同時に「写真であること」をとどめようとし、とどまろうとしている写真家なのだなあと、今回の展覧会を見て感じました。

 

f:id:yzgz:20160907174807j:plain 〈Portrats〉

 

展示室内に入って真っ先に目に入る大きなポートレイトのシリーズは、彼の代表作であり、その後の現代写真の方向性を定めた一作とも言える作品です。

この作品にまつわるエピソードが展覧会で紹介されていたので、引用します。

 

写されているのはルフの友人たちだ。当初このシリーズは、24×18cmという常識的なサイズのプリントで発表された。その展示を見た友人たちは「これは誰それだ」と、写された人物を話題にしたが、次に巨大に引き伸ばした作品を展示すると、彼らは作品の前で「これは誰それの巨大な写真だ」と言うようになったという。つまり人々は写真を見ているということに自覚的になった、ということだ。

 

わたしもルフの写真をみながら誰かとおしゃべりができたらもっと楽しかっただろうに!と思いました。

そして、このエピソードを読んで思い出したのは、最近行った別の写真展「アルバレス・ブラボ写真展 - 静かなる光と時」で出会ったブラボ氏によるこんな言葉です。

 

どの芸術にも共通する詩情は、

シンプルな手立てを通して得られる、複雑な現象の表現です。

そうした手立ては自らに正直で、おのれの限界にも忠実です。

しかしひとたび情熱が注がれ、静けさの中で口を開くと、雄弁になるのです。

by アルバレス・ブラボ

f:id:yzgz:20160907190334j:plain (これはブラボの作品です)

 

 

ご覧の通り、ブラボとルフは全く、まっったくタイプの違う写真家ですが、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」点では、おなじ。。

というより、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」芸術こそが素晴らしく、それこそが芸術の素晴らしさなのだ!と、ブラボに言葉を与えてもらい、気づかせてもらったように感じています。

 

「写真を大きくする」そのシンプルな手立てのみで、「写真が写真であること」、「写真とはなにか?」そんな問いを立てることができるルフはやっぱり天才!ラブ!

 

 ポートレイトのシリーズや建築写真のシリーズなど、この頃の写真は「写真」という体裁を整えながらも、それまでの多くの写真芸術(それこそブラボたち)が発してこなかったタイプの「写真とはなにか?」というメッセージを発しています。

 そして、彼の写真は、「絵とはなにか?」という自問によって発展した美術の歴史をなぞるように写真の歴史を更新していきます。

 

 

なかでも、「jpeg」シリーズは、わかりやすく印象派を一歩進めたちょっと科学ヲタっぽい画家たちによる点描画の、現代社会の画像をめぐる実情までも取り込んでいます。

f:id:yzgz:20160907182707j:plain 〈jpeg

 

私もとくに好きなシリーズです。

 

  f:id:yzgz:20160907183016j:plain

 

印象派の画家たちは、細かな筆致の重なりの中で白や、白に近い明るい色の絵の具を使って、「きらめき」のある世界を映し出しました。

もちろん「きらめき」はそれまでの画家にも見えていたはずですし、こんな風に見える風景もあったはずだと思いますが、当たり前にきらめいていた世界を「こんなにきらめいているよ」と図示したという意味で画期的だったんじゃないかな、と思います。

 

ですが、彼らの絵を見て「なにも見えない」「なにも書かれていない」「汚い」と評した批評家がいたように、わたしたちもルフのjpegシリーズのような画像を、何かの画像を検索する途中で見つけたら、「つかえない」「荒い」「汚い」というに違いありません。

 わたしたちは、デジタルの登場によってこの新しい映像(画像)の世界の中に、当たり前に生きていて、モニターによって写真を見るという体験を構成するビットにどんどん出会いにくくなっているんですよね。

 さらに、この荒れてビットでガギガギの写真が大きく引き伸ばされていることは、まさに、この写真がネット上を駆け巡って、何も感じられなくなるほどに拡散されている様を写しているようです。

 

そして彼の写真はもっと抽象的になっていき、はじめにあったポートレイトのように、「これは◯◯だ」と示すような具体的な像を示さなくなっていきます。

 

f:id:yzgz:20160907192056j:plain 〈r.phg.03〉

 

この作品をはじめ、彼の抽象写真は、元の画像がわからなくなるほど重ねられた加工や、仮想暗室だとか、、、、写真というコップに可能性の液体をこれでもか!と注ぎこむような感じですね。

 

 

しかし一転、2014年になると写真に像が戻ってきています。(〈negative〉や〈press++〉にて。)

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(写真が反転されると、被写体の性別もわからなくなる・・・)

(この人が男性なの、びっくりしちゃった)

 

私は彼の写真に像が戻ったことに、彼の写真に対する表面張力のようなものを感じます。

決してこぼれ落ちることなく、コップ(写真)のふちにとどまる力のようなものです。めいっぱい写真の可能性を広げながらも、写真を写真以外のなにかにすることなく、通り過ぎた写真であったセピア写真に新しい可能性を見出す試み。

 

 

 最後に、今回、一番感激した作品〈mars〉シリーズを紹介します。

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もちろんこれはどう見ても写真ですが、決定的に写真を進歩させていると感じました!

 

わたしは、写真について「過去のある1点を写す、から、制作段階のあらゆる選択を残すメディアになっていってるなー」なんて、美術手帖をはじめ、いろいろ読んだり見たりしながら考えていたのですが、ルフによる、このからっとした、軽やかでハッピーな裏切り!テンションブチ上げです。

そして、赤青3Dメガネにも大興奮。

 写真が未来を写すという、なんとも新鮮で、いつくるかわからない未来に親近感がもてる作品。

ああ写真ってまだまだおもしろいなあ!と、とっても嬉しくなりました。 

 

この秋は、写真展が多くて大忙し。

新しくなった都写美で杉本博司大先生(大好き)、原美術館で篠山エロ紀信などなど。。。

 国立近代美術館で、開催中のトーマス・ルフ展、グッズも充実してましたし、丁寧な解説のおかげでよく知らなくても楽しめるのではないでしょうか。

 ぜひぜひ足を運んでみてください!

www.momat.go.jp

 

イケてる特設ページも↓ (インタビューも読めるみたいです)

thomasruff.jp

 

写真撮影可なので、インスタ映えのおしゃれスポット間違ねーぜ!

 

また長くなっちゃったな〜〜〜

ぜひです。

 

クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」を嚙み砕く。

 
「なんで今更、敵対と関係性の美学?」って感じかも。。
知らない人にとっちゃ、なんやねんそれって話だし。
 
 でも自分のお勉強のために、わかりやすく残しておく必要性を感じているので、ザックリとここに書いておきます。
 
 「敵対と関係性の美学」はクレア・ビショップという美術批評家が2004年に書いた美術評論で、
下敷きには、その5年前に発表されたニコラ・ブリオーの「関係性の美学」があります。
 
現代美術における「関係性」という観点は、90年代以降の現代美術にとってとても重要なもので、
作品を見る際に持っていると、作品が立体的に見えてくる3Dメガネのような存在です。
 
では美学美学ってゆうけど、まず、その美学ってなんなのか。
 
男の美学とか、「♪THE美学」(あやや)とか言いますけど、学術としての美学もそんなに遠いものではないとわたしは思っています。
 
男の美学っていうのは、その男性が「こういう思考回路で、こんなものを選ぶとモテる」というその「見立て」、だとすると、
ここで、ビショップやブリオーたち、美術批評家の「xxの美学」という論文は、「こういう思考回路による、こんな作品が、新しい美を備えているのである」という「見立て」なのです。
 
 そして、ここでの新しい美は、古くからある「美しい女性」、「美しい風景」、「美しいハーモニー」とかに使われる「美」とは異なります。
 
 ニコラ・ブリオー(以下、ブリ男)は、「関係性の美学」で
90年代に登場したある種類の作品に関して、これは、新しい美=新しく美術が持つべき価値を持っている!と述べました。
 
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 ブリ男(イケてる)が、新しい美を見出したのは、リクリット・ティラヴァーニャと、リアム・ギリックらの作品です。
 
 
ここでは、特にわかりやすいティラヴァーニャに話を限定したいと思います。。(リアムごめん)
 
タイ人の両親を持つティラヴァーニャ(てじなーにゃ☆っぽいよね)の作品は、92年に初めて公開されました。
 
 
公開されたと言っても、彼は、アートギャラリーの裏にある備品、そして、二種類のカレーが入った鍋をいつも美術作品がある展示空間に置いただけ、だったそうです。
 
 そこには、いつものアートギャラリーのように、絵もなければ彫刻も、荘厳な音楽もなかったけれども、多くの人が集まり、ギャラリーのなかで談笑し、展示期間中のギャラリーでは、毎晩そのようなコミュニケーションが起こったのだそうです。
 
特別に心を傾ける対象(典型的な美術作品)の代わりにそこに新しく「関係性」が生まれていたのです。
 
 
 こちらに映像で記録があります。(3分ほどの映像です)
 
 
それまでも、参加型の作品や、「双方向的」と言われる作品がありましたが、ティラヴァーニャはその究極といった感じ。
 
この流れの背景には、もともと偉い、貴族のものだった美術を民主主義の時代にふさわしいものにする、という思いがあり、ブリオーは、まさに、この作品こそ民主的で新しい!と、「関係性」の部分に美を認めたのです。
 
 
 確かに、鑑賞者の参加や使用によって完成が実現するこの作品は民主的と言えそうです。
 
しかし、「敵対と関係性の美学」で、
クレア・ビショップはブリ男に突っ込みをいれます。
 
 
「ちゃいますやんか!」
 
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「どこが民主主義やねん!」
 
 
なんだか怒っています。
 
 同じく美術批評家でキュレーターであるクレア・ビショップは、ブリ男の考えに対抗して、ふたりのアーティスト、サンティアゴ・シエラと、トーマス・ヒルシュホルンを揚げて
真に民主的なのは、「敵対」という新しい美を備えたこっちの人たちの作品だ!と反論します。
 
「敵対」は、ラクラウとムフという社会学者が考えた概念で、
本当に民主的な社会っていうのは討論や議論ができる土壌がしっかりとした、あらゆる敵対意見が存在する社会なのだとする考え方です。
 
「敵対」がなくなってしまった社会とは、議論が封じられた、対立関係が消去された社会であると、ラクラウとムフは言います。
 
 そんな「敵対」要素があるとビショップが語るサンティアゴ・シエラの作品がこちらです。
 
 
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こちらは《4名の人々に彫られた160センチメートルの刺青線》。
 
この作品はこのようなモノクロ写真と短い文章で構成されています。
 
作者のシエラは、この作品を作るために薬物中毒の娼婦にヘロイン1回分の料金を報酬として支払って、パフォーマーとして雇い、4人の背中に合計160cmの刺青を入れたのです。
 
 環境によって、報酬の価値が異なること、
「自分たち以外の存在」を出現させるこの作品は、「敵対」の要素を持っていると言えます。
 
 ビショップは「敵対」の要素を持たないティラヴァーニャの作品を、
閉じた、異なる環境にある他者の意見が封殺された場所であると批判したのです。
 
 実際ティラヴァーニャの作品を鑑賞した人の批評を引用しています。
その批評家を女子高生っぽくすると、こうです。
ティラヴァーニャのギャラリーで、全然知らない人としゃべったりしたけど、たまには悪くないよね。あたしもみんなもアート系の人だったから、別のアーティストの新しい作品の話とか聞いたりして。結構、盛り上がったよね。別の日なんかは、「今日めっちゃダルいから、ティラヴァーニャんとこいかない?」って友達が言いだしたりとかして、マジ新しい場所で超不思議な感じしたわー。
 楽しそうです。
 
しかし、 これを踏まえてビショップは、
 「これってさー、結局アートやってるひとたちの超内輪的なお楽しみじゃない?」
「実際、みんなアート畑のお利口さんだからハッピーな感じになってるけど、それって、アート畑のお利口さん以外いなかったことにしてない?」
「それのどこが民主主義なの?超権威主義じゃね?」
 と、語るのです。
 
ティラヴァーニャたち、ひいては、ブリ男の「関係性」が同じ常識を共有した者のなかにおけるものだったのに対し、サンティアゴ・シエラの「関係性」は「敵対」を意識させる点で本当に民主的だ、としたのでした。
 
これがクレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」というエッセイです。(雑ですけど)
 
実際のところ、この議論で名前のあがったアーティストたちは、
ブリオーの推しメンであれ、ビショップの推しメンであれ、現在、世界各地で行われている現代美術のお祭りに引っ張りだこの超人気者です。
 
そう見ると、やはり、「敵対」はともかくとして、「関係性」は、現在の美術を見る上では欠かせないものであることは間違いないでしょう。
 
「敵対」のアートはやや悲観的だし、安易に用いられるようなものにならないことを望みますが、訴える力、思考させる強さ、みたいなものには、「敵対」の要素がやはり必要な気もします。
 
もし、美術館にいって、そこにある作品のなにを見たらいいかわからない、、、、と思うことがあれば、(わたしはすごくよくあります。)
 
もしかして、これは、作品(物質)に注目するのではなく、非物質(に注目すべき作品なのかもしれない、と考えると少し、作品がわかった気になれることがあります。
 
そしてお分かりのように、現代美術っていうのはこういう、見るための「考え方」や、作品のレシピ、あるいは3Dメガネのような見るために必要不可欠なアイテム、みたいなものが必要とされるものでもあるのだと思います。
  
そう思うと、多くの丸腰の人を呼び込む印象派って不思議だなー。
 
よし、私自身もこれを書いて勉強になりました!お付き合いいただきありがとうございました。
 
また長くなっちゃったー。
それではまた。
 

隠蔽される搾取のシステム-サイモン・フジワラ「ホワイトデー」展について


サイモン・フジワラは、イギリス人と日本人の間に生まれたハーフで、ゲイで、1982年生まれの比較的若手の現代美術家です。
絵を描いたり彫刻を彫ったりするというよりは、レディメイド:既製品を持ってきてそのままポン、と置くタイプの作品を作る人です。

ホワイトデーが、バレンタインデーやハロウィンなどの外来の催事とは違くて、日本の企業によって独自に作り上げられたイベント、というのは有名な話だとおもう。

恋人や親しい人に愛や日頃の感謝を伝えるバレンタインデーも、日本では製菓会社のマーケティングによって、チョコレートを添えて「女性が愛を伝える日」として、小学校からビジネスシーンまである意味大イベントですよね。
「義理チョコ」や「友チョコ」も日本発の文化なのだそう。

サイモン・フジワラが今回の展覧会のタイトルに採用した「ホワイトデー」は、バレンタインデーにもらった愛や感謝をお返しするための日として作り上げられた日。
悪く言っちゃえば、愛や感謝を金銭として搾取するシステムです。
 
そして、この展覧会で見られるモチーフはほとんどが、「ホワイトデー」と同じ「意味が消えるほどに繰り返された」ものたち。


例えば、そのひとつとして、フジワラは、展覧会場の床のいたるところに硬貨を置きます。
例えば硬貨が、床や地面に落ちているとき、わたしたちは普通どうするか。
拾って持ち主らしき人を探すか、機嫌がよければ交番に届けるか、そのまま自分の財布に入れてしまうかも。

でも美術館の床に置かれた硬貨に対しては、そこが、さっきの地面と地続きでも、わたしたちは拾ったりしません。

硬貨は美術館においては、貨幣経済のシステムの中で失われたその、超細かくて、美しく精緻な彫像としてのコインの姿を、他の作品と同じように眺められることができます。
 


そして、《不死鳥三部作》の鷹の像も同じ。
権威の象徴として、王朝や貴族のアイコンとして使われた鷹はそのうち、「ナチスの」権威の象徴として採用されます。

でも戦後になるとナチスを思わせるとかで、鷹狩りか!ってな感じでナチスに関係あろうとなかろうと削り取られたのだそうです。

ほとんど削り取られて見えなくなっちゃった鷹は、繰り返しによって意味がすり替わっていって次第になくなっちゃった姿なのです。


そして、この展覧会のなかで、もっとも存在感とメッセージを放ってるのが、《レベッカ》です。  

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レベッカ》は2011年のロンドンの若者による暴動で検挙された少女・レベッカが更生プログラムに参加したドキュメンタリー映像と、そこで体験した兵馬俑の技術で型取りされた彼女そっくりの石膏像で構成されています。

彼女は、更正プログラムのなかで、彼女やその暴動に参加した若者がよく着るようなスポーツウェアの生産工場の見学にいって、そこで働く同い年の中国の女の子と出会ったのだそう。

会場にあるレベッカは、自分たちの着ている服と同じように大量に複製されているものですが、なかには、壊れてばらばらになったものも何体かあって、会場にごろっと転がっていたりします。

人型の像が首だけになってたり、手だけ、足だけ、となると普通ショッキングな印象がするものだけど、大量生産された衣服の一着一着の意味のように、い〜〜〜っぱいのレベッカがいることで、わたしは、少しの壊れたレベッカにあんまりショックを感じられなかったのですが、
大量生産はこうゆう風に感覚を鈍くしていくものなのかもしれません。
 
 
順番が前後しますが、この展覧会の一番はじめには、《ホワイトギフト》という作品があります。
この作品はハイブランドのショップ袋を思わせるような白い紙袋に毛皮が入れられた作品です。

消費の象徴としての紙袋に入れられた毛皮はその一部しか見えないから、それが毛皮のコートなのか、まだ生地でしかない毛皮なのか、それとも動物そのものが入っているのかわからない。ひょっとすると、それが動くのかもしれないとさえ思うくらいです。

毛皮を着ることでリッチであることとか、セレブであることをアピールできるし、ファッションアイテムとしてかわいいけど、そういうステータスが、動物の命を搾取してなりたっているってことを、フジワラの作品からは感じます。

今回の「ホワイトデー」展ではそれ以外にも毛皮がたびたび登場します。
《驚くべき獣たち》では、毛皮のコートを作るときに職人が毛皮の裏に記した動物の健康状態やメモ、異なる形を持つ小動物の毛皮を見事に繋ぎ合わせている様子を、毛皮の毛をすべて刈り取って額に入れてそのパッチワークを見せています。
職人さんが実際に毛皮のコートを作る様子も。

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この作品をみていて、職人さんたちの技術力と執念にもびっくりするけど、その職人さんたちも、セレブと変わらず動物の命を搾取して生活してんだよなあ、と思います。

毛皮を高度な技術で繋ぎ合わせ一着のコートとすること、そしてそれを着るということ。
誰が「驚くべき獣たち」なのか。。。?


 
と言いつつ、わたしは会場の東京オペラシティギャラリーには、ダウンジャケットを着ていったのですが、このことで、図らずもこの展覧会を最大限に体感することとなった気がします。

帰りがけに袖に腕を通しながら、ダウンもまた、毛皮と同じような搾取から作られるものだということを思い出さずにはいられませんでした。

だからあえて今展には、ダウンや革製品、そして毛皮を着て行くのがおすすめ。
展覧会場内でそれを羽織っていれば、居心地の悪い思いができるだろうし、あるいは、出口でコインロッカーに預けた上着を受け取るときに、時限爆弾のようにビターなメッセージがあとから効いてくることでしょう。。。

サイモン・フジワラのホワイトデーのギフトは搾取のシステムを突きつける苦ーい贈り物かもしれません。


東京オペラシティギャラリーで3月27日までです。



ぜひです。