おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」を嚙み砕く。

 
「なんで今更、敵対と関係性の美学?」って感じかも。。
知らない人にとっちゃ、なんやねんそれって話だし。
 
 でも自分のお勉強のために、わかりやすく残しておく必要性を感じているので、ザックリとここに書いておきます。
 
 「敵対と関係性の美学」はクレア・ビショップという美術批評家が2004年に書いた美術評論で、
下敷きには、その5年前に発表されたニコラ・ブリオーの「関係性の美学」があります。
 
現代美術における「関係性」という観点は、90年代以降の現代美術にとってとても重要なもので、
作品を見る際に持っていると、作品が立体的に見えてくる3Dメガネのような存在です。
 
では美学美学ってゆうけど、まず、その美学ってなんなのか。
 
男の美学とか、「♪THE美学」(あやや)とか言いますけど、学術としての美学もそんなに遠いものではないとわたしは思っています。
 
男の美学っていうのは、その男性が「こういう思考回路で、こんなものを選ぶとモテる」というその「見立て」、だとすると、
ここで、ビショップやブリオーたち、美術批評家の「xxの美学」という論文は、「こういう思考回路による、こんな作品が、新しい美を備えているのである」という「見立て」なのです。
 
 そして、ここでの新しい美は、古くからある「美しい女性」、「美しい風景」、「美しいハーモニー」とかに使われる「美」とは異なります。
 
 ニコラ・ブリオー(以下、ブリ男)は、「関係性の美学」で
90年代に登場したある種類の作品に関して、これは、新しい美=新しく美術が持つべき価値を持っている!と述べました。
 
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 ブリ男(イケてる)が、新しい美を見出したのは、リクリット・ティラヴァーニャと、リアム・ギリックらの作品です。
 
 
ここでは、特にわかりやすいティラヴァーニャに話を限定したいと思います。。(リアムごめん)
 
タイ人の両親を持つティラヴァーニャ(てじなーにゃ☆っぽいよね)の作品は、92年に初めて公開されました。
 
 
公開されたと言っても、彼は、アートギャラリーの裏にある備品、そして、二種類のカレーが入った鍋をいつも美術作品がある展示空間に置いただけ、だったそうです。
 
 そこには、いつものアートギャラリーのように、絵もなければ彫刻も、荘厳な音楽もなかったけれども、多くの人が集まり、ギャラリーのなかで談笑し、展示期間中のギャラリーでは、毎晩そのようなコミュニケーションが起こったのだそうです。
 
特別に心を傾ける対象(典型的な美術作品)の代わりにそこに新しく「関係性」が生まれていたのです。
 
 
 こちらに映像で記録があります。(3分ほどの映像です)
 
 
それまでも、参加型の作品や、「双方向的」と言われる作品がありましたが、ティラヴァーニャはその究極といった感じ。
 
この流れの背景には、もともと偉い、貴族のものだった美術を民主主義の時代にふさわしいものにする、という思いがあり、ブリオーは、まさに、この作品こそ民主的で新しい!と、「関係性」の部分に美を認めたのです。
 
 
 確かに、鑑賞者の参加や使用によって完成が実現するこの作品は民主的と言えそうです。
 
しかし、「敵対と関係性の美学」で、
クレア・ビショップはブリ男に突っ込みをいれます。
 
 
「ちゃいますやんか!」
 
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「どこが民主主義やねん!」
 
 
なんだか怒っています。
 
 同じく美術批評家でキュレーターであるクレア・ビショップは、ブリ男の考えに対抗して、ふたりのアーティスト、サンティアゴ・シエラと、トーマス・ヒルシュホルンを揚げて
真に民主的なのは、「敵対」という新しい美を備えたこっちの人たちの作品だ!と反論します。
 
「敵対」は、ラクラウとムフという社会学者が考えた概念で、
本当に民主的な社会っていうのは討論や議論ができる土壌がしっかりとした、あらゆる敵対意見が存在する社会なのだとする考え方です。
 
「敵対」がなくなってしまった社会とは、議論が封じられた、対立関係が消去された社会であると、ラクラウとムフは言います。
 
 そんな「敵対」要素があるとビショップが語るサンティアゴ・シエラの作品がこちらです。
 
 
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こちらは《4名の人々に彫られた160センチメートルの刺青線》。
 
この作品はこのようなモノクロ写真と短い文章で構成されています。
 
作者のシエラは、この作品を作るために薬物中毒の娼婦にヘロイン1回分の料金を報酬として支払って、パフォーマーとして雇い、4人の背中に合計160cmの刺青を入れたのです。
 
 環境によって、報酬の価値が異なること、
「自分たち以外の存在」を出現させるこの作品は、「敵対」の要素を持っていると言えます。
 
 ビショップは「敵対」の要素を持たないティラヴァーニャの作品を、
閉じた、異なる環境にある他者の意見が封殺された場所であると批判したのです。
 
 実際ティラヴァーニャの作品を鑑賞した人の批評を引用しています。
その批評家を女子高生っぽくすると、こうです。
ティラヴァーニャのギャラリーで、全然知らない人としゃべったりしたけど、たまには悪くないよね。あたしもみんなもアート系の人だったから、別のアーティストの新しい作品の話とか聞いたりして。結構、盛り上がったよね。別の日なんかは、「今日めっちゃダルいから、ティラヴァーニャんとこいかない?」って友達が言いだしたりとかして、マジ新しい場所で超不思議な感じしたわー。
 楽しそうです。
 
しかし、 これを踏まえてビショップは、
 「これってさー、結局アートやってるひとたちの超内輪的なお楽しみじゃない?」
「実際、みんなアート畑のお利口さんだからハッピーな感じになってるけど、それって、アート畑のお利口さん以外いなかったことにしてない?」
「それのどこが民主主義なの?超権威主義じゃね?」
 と、語るのです。
 
ティラヴァーニャたち、ひいては、ブリ男の「関係性」が同じ常識を共有した者のなかにおけるものだったのに対し、サンティアゴ・シエラの「関係性」は「敵対」を意識させる点で本当に民主的だ、としたのでした。
 
これがクレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」というエッセイです。(雑ですけど)
 
実際のところ、この議論で名前のあがったアーティストたちは、
ブリオーの推しメンであれ、ビショップの推しメンであれ、現在、世界各地で行われている現代美術のお祭りに引っ張りだこの超人気者です。
 
そう見ると、やはり、「敵対」はともかくとして、「関係性」は、現在の美術を見る上では欠かせないものであることは間違いないでしょう。
 
「敵対」のアートはやや悲観的だし、安易に用いられるようなものにならないことを望みますが、訴える力、思考させる強さ、みたいなものには、「敵対」の要素がやはり必要な気もします。
 
もし、美術館にいって、そこにある作品のなにを見たらいいかわからない、、、、と思うことがあれば、(わたしはすごくよくあります。)
 
もしかして、これは、作品(物質)に注目するのではなく、非物質(に注目すべき作品なのかもしれない、と考えると少し、作品がわかった気になれることがあります。
 
そしてお分かりのように、現代美術っていうのはこういう、見るための「考え方」や、作品のレシピ、あるいは3Dメガネのような見るために必要不可欠なアイテム、みたいなものが必要とされるものでもあるのだと思います。
  
そう思うと、多くの丸腰の人を呼び込む印象派って不思議だなー。
 
よし、私自身もこれを書いて勉強になりました!お付き合いいただきありがとうございました。
 
また長くなっちゃったー。
それではまた。
 

隠蔽される搾取のシステム-サイモン・フジワラ「ホワイトデー」展について


サイモン・フジワラは、イギリス人と日本人の間に生まれたハーフで、ゲイで、1982年生まれの比較的若手の現代美術家です。
絵を描いたり彫刻を彫ったりするというよりは、レディメイド:既製品を持ってきてそのままポン、と置くタイプの作品を作る人です。

ホワイトデーが、バレンタインデーやハロウィンなどの外来の催事とは違くて、日本の企業によって独自に作り上げられたイベント、というのは有名な話だとおもう。

恋人や親しい人に愛や日頃の感謝を伝えるバレンタインデーも、日本では製菓会社のマーケティングによって、チョコレートを添えて「女性が愛を伝える日」として、小学校からビジネスシーンまである意味大イベントですよね。
「義理チョコ」や「友チョコ」も日本発の文化なのだそう。

サイモン・フジワラが今回の展覧会のタイトルに採用した「ホワイトデー」は、バレンタインデーにもらった愛や感謝をお返しするための日として作り上げられた日。
悪く言っちゃえば、愛や感謝を金銭として搾取するシステムです。
 
そして、この展覧会で見られるモチーフはほとんどが、「ホワイトデー」と同じ「意味が消えるほどに繰り返された」ものたち。


例えば、そのひとつとして、フジワラは、展覧会場の床のいたるところに硬貨を置きます。
例えば硬貨が、床や地面に落ちているとき、わたしたちは普通どうするか。
拾って持ち主らしき人を探すか、機嫌がよければ交番に届けるか、そのまま自分の財布に入れてしまうかも。

でも美術館の床に置かれた硬貨に対しては、そこが、さっきの地面と地続きでも、わたしたちは拾ったりしません。

硬貨は美術館においては、貨幣経済のシステムの中で失われたその、超細かくて、美しく精緻な彫像としてのコインの姿を、他の作品と同じように眺められることができます。
 


そして、《不死鳥三部作》の鷹の像も同じ。
権威の象徴として、王朝や貴族のアイコンとして使われた鷹はそのうち、「ナチスの」権威の象徴として採用されます。

でも戦後になるとナチスを思わせるとかで、鷹狩りか!ってな感じでナチスに関係あろうとなかろうと削り取られたのだそうです。

ほとんど削り取られて見えなくなっちゃった鷹は、繰り返しによって意味がすり替わっていって次第になくなっちゃった姿なのです。


そして、この展覧会のなかで、もっとも存在感とメッセージを放ってるのが、《レベッカ》です。  

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レベッカ》は2011年のロンドンの若者による暴動で検挙された少女・レベッカが更生プログラムに参加したドキュメンタリー映像と、そこで体験した兵馬俑の技術で型取りされた彼女そっくりの石膏像で構成されています。

彼女は、更正プログラムのなかで、彼女やその暴動に参加した若者がよく着るようなスポーツウェアの生産工場の見学にいって、そこで働く同い年の中国の女の子と出会ったのだそう。

会場にあるレベッカは、自分たちの着ている服と同じように大量に複製されているものですが、なかには、壊れてばらばらになったものも何体かあって、会場にごろっと転がっていたりします。

人型の像が首だけになってたり、手だけ、足だけ、となると普通ショッキングな印象がするものだけど、大量生産された衣服の一着一着の意味のように、い〜〜〜っぱいのレベッカがいることで、わたしは、少しの壊れたレベッカにあんまりショックを感じられなかったのですが、
大量生産はこうゆう風に感覚を鈍くしていくものなのかもしれません。
 
 
順番が前後しますが、この展覧会の一番はじめには、《ホワイトギフト》という作品があります。
この作品はハイブランドのショップ袋を思わせるような白い紙袋に毛皮が入れられた作品です。

消費の象徴としての紙袋に入れられた毛皮はその一部しか見えないから、それが毛皮のコートなのか、まだ生地でしかない毛皮なのか、それとも動物そのものが入っているのかわからない。ひょっとすると、それが動くのかもしれないとさえ思うくらいです。

毛皮を着ることでリッチであることとか、セレブであることをアピールできるし、ファッションアイテムとしてかわいいけど、そういうステータスが、動物の命を搾取してなりたっているってことを、フジワラの作品からは感じます。

今回の「ホワイトデー」展ではそれ以外にも毛皮がたびたび登場します。
《驚くべき獣たち》では、毛皮のコートを作るときに職人が毛皮の裏に記した動物の健康状態やメモ、異なる形を持つ小動物の毛皮を見事に繋ぎ合わせている様子を、毛皮の毛をすべて刈り取って額に入れてそのパッチワークを見せています。
職人さんが実際に毛皮のコートを作る様子も。

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この作品をみていて、職人さんたちの技術力と執念にもびっくりするけど、その職人さんたちも、セレブと変わらず動物の命を搾取して生活してんだよなあ、と思います。

毛皮を高度な技術で繋ぎ合わせ一着のコートとすること、そしてそれを着るということ。
誰が「驚くべき獣たち」なのか。。。?


 
と言いつつ、わたしは会場の東京オペラシティギャラリーには、ダウンジャケットを着ていったのですが、このことで、図らずもこの展覧会を最大限に体感することとなった気がします。

帰りがけに袖に腕を通しながら、ダウンもまた、毛皮と同じような搾取から作られるものだということを思い出さずにはいられませんでした。

だからあえて今展には、ダウンや革製品、そして毛皮を着て行くのがおすすめ。
展覧会場内でそれを羽織っていれば、居心地の悪い思いができるだろうし、あるいは、出口でコインロッカーに預けた上着を受け取るときに、時限爆弾のようにビターなメッセージがあとから効いてくることでしょう。。。

サイモン・フジワラのホワイトデーのギフトは搾取のシステムを突きつける苦ーい贈り物かもしれません。


東京オペラシティギャラリーで3月27日までです。



ぜひです。

ソフィ・カル 《限局性激痛》のエグみ


ソフィ・カルについて、
この鑑賞体験が現段階でわたしの中ではベストで、そしてワーストになりそう。

彼女のことは、偶然出会った男性を尾行してパリからベネチアまでついていったり、自分を探偵に尾行させたりした作品を大学3年のときにはじめて見て知って、大好きになった。

中身がない(ように感じた)写真の勉強に飽き飽きしていたわたしにとって、アートフォトの世界を楽しむきっかけになったアーティストです。


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かわいいひとです。

でもカルの作品を見ると、いつもなんとなく、気がかりなことがありました。

彼女の作品を見てるとなんだか少し悪いことをしているみたいな気分になるのです。


例えば〈Blind〉っていうシリーズでは盲目のひとに「あなたが今まで見たなかで一番美しいものはなんですか」と聞いて、得られた答とその風景の写真を一緒に展示しています。

Sophie Calle: Blind

Sophie Calle: Blind


その試み自体はすごく面白いと思えるけど、なんかいつも、これっていいのかなあという気になる。

でも、今日、〈限局性激痛〉を見て、そのソフィ・カルのエグみにはじめてきちんと向き合った気がしています。

ソフィ・カルの99年の作品〈限局性激痛〉は、
2つのパートに分かれていて、いま、原美術館で見ることができるのは後半のパートです。

前半は、ようやくの思いで手に入れた恋人をパリにのこして日本に3ヶ月留学することになったカルが、留学中に彼を思ってつづった手紙と写真と、彼からの手紙と、不幸までのカウントダウンで構成されています。

そして、彼に会うはずの日に届いた唐突なメッセージによる分断。
今回展示されている後半は、彼からのメッセージと残酷な行動による最悪な夜のことを他人に語って、それと引き換えに他人の辛い経験を聞いて自分の傷を癒していくというパートになっています。


実はわたしも1年半くらい前にすごく悲しいことがあって、
大事なものを何重にも失って、いまもまだそれが増えないかびくびくしているし、つい最近も増えたところで、丸腰・傷むき出し・ノーガード状態で、ソフィ・カルにフルボッコにあってしまいました。

後半のカルの語りは全部、「x日前、愛している男に捨てられた。」という文句で始まるので、彼女風に言えばわたしも「420+x日前、云々」となるわけですが、
作品を見ながらわたしも、わたしと彼女の、あの日のあの気分にポンと投げ込まれて、はじめは自分の悲しかったこととソフィ・カルのエピソードが自動的に重なってどんどん悲しくなる一方で、まさに激痛です。心臓つぶれるかと思った。。。

だけどそのうち、ソフィ・カルがたずねた他人のエピソードの痛さがだんだんエスカレートしていくことで、カルに起こった、そして自分に起こった不幸な出来事なんか大したことないかもって思えるようになっていました。
痛みによる痛みの治療をわたしも一緒に受けていたようです。



ところで、幸せについて語るとき、「地球のどこかの恵まれない子供たち」が出てきて、
わたしたちを彼らと比べて、「ご飯が食べれるだけでも幸せ」とか「服を着られるだけでも幸せ」とかそういうふうに考えなくちゃいけないときがあるけど、わたしはそれを認めることができないなと思う。
もちろん改善すべき状況がそこにはあるんだと思うけど、わたしたちが今直面する不幸と、ご飯を食べられない不幸を比較して考えることなんてわたしにはできない。不幸のかたちや質が違すぎて、ほんとうなら重さを比べられないけど、それでもそういう悲しさの治療法ってある。


ソフィ・カルがこの作品で誰かから聞いたエピソードは、全くそれみたいに、不幸の肌触りがぜんぜん違うものの集積。
なのに、それ同士の大きさや重さを比較して、もう大丈夫だって思うことってほとんど無駄で、ほんとはなんの治療でもないし、今となっては誰かの痛みで自分の痛みを治療するのって、なんて乱暴な自己防衛だっ!って気がしてくるのです。
〈限局性激痛〉の鑑賞体験と、この制作プロセス(とされているもの(=彼女の作品は真偽がわからないのです))って、
すごく日常生活のなかで頻繁に出会う乱暴な態度で、
一生懸命心配しているふりで自分が心配してほしいとか、
心配しているふりで引き出した苦労話を自分の靴底に入れて少し自分を大きくするみたいな、他人の不幸の乱暴な搾取みたい。
いまは〈限局性激痛〉でソフィ・カルの治療と搾取に自動的に自分も加担してたことにゾッとしている。
癒されたことにげんなりする。
自分の悲しかったこと引き出させた〈痛み1〉うえで、それを治療してくれて〈フェイント?〉、その治療のいやらしさに気付かせる〈痛み2〉この作品は、二重で痛い。

なんだか卑しい気持ちの結晶を食わされたみたい。ペッペッ


自分の卑しさの味を考えてると、新しく、また別のところが痛いけど、おセンチでなんかいられなくなる。
悲しいのと卑しいのと満タンでゲップ出そうで出なくて苦しいですってかんじ。

ずっと、芸術のなかの暴力-暗さとか、グロさ、エロさ-の意味と強度についてかんがえていて、基本的には芸術の暴力の強さが大嫌いだった。
ソフィ・カルのこの作品もある種の暴力だと思うけど、カルの場合は、鑑賞者を加害者にするから怖い。同じように〈Blind〉も、そういう共犯関係を、カルと鑑賞者の中に起こしてるから、ちょっとどんよりした気持ちにさせるのでしょう。

今までは、なんとなくなーあれだなーと思っていただけだったけど、
今日、そのエグみを思いっきり食わされる経験をした気がします。
でも、この痛さを知ることができたので、この作品の経験はすごくよかった。

みなさんの感じ方はわたしと違うかもしれないけど、
それでも、何かしらかの痛みがあるんじゃないでしょうか。。。。



原美術館の[ハラドキュメンツ10]東京尾行 / 佐藤雅晴と同時開催中のコレクション展にて。

佐藤雅晴の「東京尾行」も、コレクション展の別の作品もとっても見応えがありましたので、ぜひです。


Douleur exquise

Douleur exquise


買っちゃった☝︎
〈限局性激痛〉フランス語版(日本語訳冊子付き)なので、自分で訳したら勉強になるかな。。途中で辛くなっちゃうかな。。


「ハラドキュメンツ10 佐藤雅晴―東京尾行」
Hara Documents 10 Masaharu Sato: Tokyo Trace
2016年1月23日[土] ― 5月8日[日] 
原美術館 ギャラリーI、II、他

*会期中、原美術館ギャラリーIII、IV、Vにて「原美術館コレクション展:トレース」を併催。「ハラドキュメンツ10」に出品する佐藤雅晴の制作技法・トレースにちなみ、他人の苦しみをなぞることで自分の苦しみを相対化していくソフィ カルの『限局性激痛』(第2部)や、名画の登場人物や現代のイコン的な人物に扮することで“模写”する森村泰昌の作品等を展観します。



ぜひです!


旅先の美術館についてー金沢・21世紀美術館にいっておもったことー

 
金沢21世紀美術館にはこれまで2回足を運んでいます。
 
一回目は、「内臓感覚」っていう展覧会をやっていたときで、(2013年)
二回目は「ポスト工業化時代の芸術 われらの時代」という展覧会の会期中。(2015年6月)
 
どちらもだいぶ前ですけど。。。

あのSANAAが作った美しい建築とか、恒久展示のタレル、アニッシュカプーア、レアンドロ・エルリッヒは最高に大好きだし、あそこにあるべき素晴らしい作品だと思います。

でも、たまたま見た2回の展示が偶然そうだったのかわからないけど、どちらの展覧会も私にとってこうあって欲しくない、絶対避けて欲しい(現代)美術のすがたでした。心底悲しくなりました。
 
 
「内臓感覚」展は、わたしにとって芸術の傲慢を気づかせてくれた点ではとてもいい経験だったと思っているけど、悲しい鑑賞体験第1位。
思い出すと泣きそうになってくるほどの、暴力的なイメージの連続。
 
思い出してこんなん書いてます⤵︎(これも1年以上前)

 

 
「われらの時代(2015年)」展も、そこまでではなかったものの、鑑賞者に優しくない展示だと強く感じました。
 
とにかくどちらの展覧会でも、わたしは他のお客さんの早さとか、困り顔とかがどうも気になってしまった。
 
 
たぶん、あの美術館に来ていた人たちは、新幹線が開通した金沢に遊びに来て、観光スポットのひとつとして何気なく21世紀美術館に足を運んだのだと思うのです。
(それと金沢は見るところがたくさんあるわけじゃない)
 
それは、美術にとってすごいことで、ふだん自分が住んでいる都市、市町村の美術館やギャラリーには足を運ばない、美術には特段興味がないひとたちが、旅行だったら現代美術の美術館に旅行だから、というだけで気軽に足を運んでくれるわけです。
 
現代美術が小難しく、敷居が高く思われて、かつ一周まわって”現代アートw的”に揶揄の対象になっているなかで、普段美術を見ない人が見てくれる、来てくれる場所や機会はとても大切で尊いと思います。
 
東京や大阪などの都会にある美術館よりも、地方の観光地の美術館のほうが、ふだん美術鑑賞をしないお客さんが多いと思う。
 だから、観光地にある美術館にはそういう、役割が、責任があるはず。
 
 
21世紀美術館のあの会場の特性上、各展示室にひとりずつ作家を配置するあの贅沢な空間の使い方は、作家にとっては嬉しいかもしれませんが、各々の作品が独立しすぎて、展覧会を一貫したテーマで見られなくて、
ただでさえ"難解"な現代美術を最も不親切なかたちで見せられているように感じました。
(その一貫性のなさがわれらの時代である、ということととるべきなのかもしれない..?)
 
解説は壁にはってあるのではなくて、ラミネートされたA4サイズのレジュメが何枚か置かれていました。文章はA4にみっちりぎっしり書かれています。
解説を手に持って自由に展示室を動き回れることが目的ならよい仕掛けかもしれませんが、実際、わたし以外の鑑賞客のひとたちはとても早い。立ち止まらず、作品をろくに見もせず、もちろん解説を手に取ることもありませんでした。(「われらの時代」展)
 
それでも、たまには解説を手に取るひともいるでしょう。
しかし、その文章は、こんなかんじ。
こうした流れを前提にすれば、金氏徹平による作品は、脱物質性の後に現れたコンセプチュアル・アートのカウンターというより、ダイレクトに正統キュビズムにまで遡る長い歴史の流れに接続点がある。(「リアルの手触り」黒澤浩美「われらの時代」展カタログより)
たぶん、 はてなワールド
一般の、美術史の勉強等をしていないひとにはちょっとむずかしいか、さっぱり、、なのではないでしょうか。
 
 
 
これでは、そもそも美術に興味のない人との、
現代美術との出会いあるいは再会、いずれにしても、最悪の接触です。
 
「そもそも苦手/よくわからない」人たちに
「やっぱり苦手/ぜんぜんわからなかった」と、そんな感情を抱かせてしまったら、そのひとたちが「美術きらい」と思ってしまったら
他の地方都市、都内とか、住んでいるところの美術館に行く機会も奪うかもしれない。

 
旅先の美術館には、責任があるのです。
 
美術間口をひろげること、美術全体の門となっている自覚も絶対に必要です。
 
 
21世紀美術館はキュレーションのディレクターが長谷川祐子さんから変わられて、展示もちょっと変わった、などと言われているようですが、
SANAAのあの建築のテーマ「開けた美術館」を、建物だけではなく、企画からも実現して欲しいと本当に思います。
それは、絶対に日本の美術全体のためになると思うからです。

(かといって、木梨憲武の展覧会やるべきとは思わないし、迎合すべき!とは思っていないのですが。。。)
 
 
最近、こんなことを、以前よりも強く思っています⤵︎


美術のための美術だけになってしまったら、沈黙してるのとあんまり変わらない気がしちゃうので。。

どうしていくべきか、わたしもかんがえます!

ではまた!!

 

TOKYO展 批評


前回のポスト
東京都現代美術館「TOKYO-見えない都市を見せる」展について、
再考して書いたものがこちら👇です!



ブログよりはまじめに、かつ短く書いてます。
今回はいいリズムで書けたと思いますので、こちらもぜひごらんください!

東京都現代美術館「見えない都市を見せる "TOKYO"」展

 

東京都現代美術館ではじまった東京アートミーティングⅣ「見えない都市を見せる"TOKYO"」展へいってきました。


ちかごろ、日本人が日本を賞賛する外国人を見たがっている、とか、日本のこんなところが世界に認められている、とか、日本人はゴミ拾いをして素晴らしいとか、「YOUは何しに日本に?」(だっけ?)というテレビ番組とか、最近だとFacebookでのハロウィンのあとのボランティアの記事に見る「日本人が見たい日本のすがた」という盛大なオナニー

VS

日本は未だになにもかも猿真似で、政治も文化も未成熟で、ながーい不況で見通しも明るくないし、近隣のアジア諸国に負けている、とか、同じハロウィンを例に出すならあのお祭り騒ぎの渋谷の様子を揶揄・批判するような、なんか怒りっぽい自戒的な態度、

という対立をよく見るなあと思うのですが、

今回の展覧会はほぼ前者の態度で、そのオナニーっぷりが良質な?サブカルチャーによってやや緩和されている、という印象でした。

「"TOKYO"」を冠した展覧会らしく、2020年のオリンピックに向かって、80年代以降の誇れるor誇っても良い、世界に出しても恥ずかしくないTOKYOを自分たちのために再確認する作業のような鑑賞体験でした。

「オリジナルで洗練された」サブカルチャーをもつ東京の可視化という、良い東京を見たいという欲求が働いているような気がしちゃいましたが、実際東京の「オリジナリティ」ってどうなんでしょうか。そもそもある?

私は、日本人の世界での活躍など、本当に誇らしいことと思っているし、伝統工芸や和食とか、漫画とか、テクノポップなどが世界に認められるということ、単純に嬉しいです。国民性というものがあるのであれば、わたしは日本人の国民性の一部分にはとてもよいものがあると思っています。

一方で、現在の日本の政治が世界にどう見られているかはすごく気になる。ただ、隣の国や、隣の隣の国を批判してしまうような、アジア内エリート意識というのは注意しないといけないかなと思ったりもしています。


だから、今回の展覧会を見て、安心し、見たいTOKYOを見ることができた、というような気もするのですが、いまのTOKYOが可視化されたものがこんなに心休まるものでいいんでしょうか?

 

例えば、YMOはいつまでたっても本当にイケてますが(展示室では大興奮でした)、それは、YMOのルーツに、日本人としての劣等感、TOKYOとはなんなのか、という自問があって、その回答としてのTOKYOのイメージが新しくてかっこよかった!(昇華された?)ということで、決してTOKYOイケてるんだぜ〜〜〜!ブイブイブイ!っていう、先ほどの対立でいう前者のような感覚ではなかったのではないでしょうか。

イケてないものを作るべき言ってるんじゃなくてYMOがイケてるのとかスーパー当たり前に共通認識だし、もちろん彼らの音楽は大好きです。

でも彼らが今になってこのような形で展示されたのを見て、そういうTOKYOのオリジナリティへの問いが吹っ飛ばされた、なんのヒントも反省もなしにピュアに創造されたTOKYOの純粋イメージ!のように見せられている気がしました。

80年代、当時、世界を席巻していたKraft workの音楽を受けて、テクノを日本でやるなら軽薄で病的な要素を加えたテクノポップであると、そういうヒップホップ的感性が働いたところにわたしは強く惹かれるのですが、純粋培養のトーキョーサブカルチャーなるものとしてYMOが見せられているような気がしてしまいました。外に対する劣等感なしで、自信満々マンすぎないか、という。もちろんいけてるんですけど、自信満々でも問題ないほど大好きですけど。

 東京賛歌としての《Technopolis》なんてちょっと恐ろしいですしね。


展覧会全体を通じてそうした、急にぽこっと生まれたかのような日本独自・東京独自であるこという強調、あるいは外来的な文化の"受容"という視点がぬぐい取られているというような印象をうけました。

もし 2020年のオリンピックでテクノポップがフィーチャーされたら嬉しいけど、東京というアジアのエリート意識と、欧米の劣等生の意識がまぜこぜになった場所であるっていうことは、TOKYOのイメージ形成にとって重要に思えます。

  一方、今展で、最高に濃い味、写真家蜷川実花の展示室こそ、もしかしてピュアトーキョーのイメージなのかもしれません。

被写体になった人たちは「際限ない承認欲求とそれを制する自分自身の理性とがせめぎ合うところで戦っている」という意味で「ギリギリの人たち」なのだそうです。

ギャル男?とか、アニメの登場人物になっているひと?(レイヤー?)とか、ジェンダーレス男子とかインスタアイドルとか様々いましたが、彼らに関しては正直今更感もあるくらいで、もう新しくないから、彼ら自身の存在を表に出すってだけではちょっと足りないというか。展示においてももっと深い考察がなされる存在だとも思うので、こういうところにこの展覧会の「再確認」っぽさがある気がします。


最近の、性別の境が男女相互に向かい合って浸食していってる感じはとても面白いし、そしてそのフォーマットとしてのインスタグラム。その氾濫は自己承認欲求以外にも語り口がいくらでもありそうです。

 

林科という中国のアーティストの作品も、とてもおもしろかったのですが、彼の作品をあの場で見ると、どうも日本に好意的な目線を感じたい、日本に関心があると思われたい、中国の人に嫌われたくない。。。。。ねえ好き?好き?好きって言って!!!!的な感性を満たすものとして機能しやしないかと不安になってしまいます。。

 

と、ここまでちょっと辛辣な感じできましたが、ジェレミー・ショウの作品は最高でした。 

最高!!!!!!!!でした。大好き!!

これまでの芸術体験のなかでもTOP5に入るくらいの作品だったと思います。あんな幸せなことはない。こんなふうに思えて幸せです。

 

ジェレミー・ショウの作品を見るだけでも、いや、ホンマタカシのもろい儚いTOKYO、目(め)のワームホールTOKYO、そしてYMO+宮沢章夫蜷川実花などなどなどなど、大変エキサイティングな展覧会ですのでおすすめです。

蜷川実花の被写体になった彼らの抱える自己承認欲求と同じように、わたしたちの国民レベルの承認欲求を満たしてくれる展覧会ともいえるでしょう。

まさにわたしたちの見たいTOKYOを見せてくれる、と言えます。



来年2月14日までだそうです。

www.mot-art-museum.jp

ぜひです。

 

あと、今回けっこう押し出されていた80sムードみたいなのを見ていて思ったのですが70’sなヒッピー的なデニムのブーム、90’sのストリートとかヒップホップ(ファッション)のブームも終わってもうすぐ80’sブームがくる、そんな感じはすごくしました。

ネオW浅野とかネオ聖子みたいなのこないかなー!わかんないけど。

 

あと、80'sコピーライター文化、商品そのものよりもその商品が内包する情報を売る時代、その空気もふたたび加速しているような。。。むしろすでにそう?

 

でも、2020年には、80'sムーブメントきてるんじゃないかな!そうなっているでしょう!たぶんね。

 

長くなりました!

では!

Instagram ー服に代わるファッションー

と、ふと思いついたので、書いてみます。

ネットができたことによって、ネット上で仲間を集めることができるようになったから、思想を表現するために、パンク、とかヒッピーとか、そういうファッションをする必要がなくなった。っていう考えが、ファッションに強烈なムーブメントが起こらなくなった理由のひとつというのは理解できるけど、わたしは、最近の、特に女の子のファッション観の変化はそういうところでは語れないと思うのです。

(1995年にネットが生まれて今年で20歳になるわけだし、その考え方ってすでに古いような気もする。)


というかそもそも、パンクとか、ヒッピーとか、ロックとかのファッションは、中には女の子もいたけど、結局男性同士が共闘するためのマッチョなツールだったんじゃないでしょうか。

(センター街にいたヤマンバギャルとかは日本でも唯一の共闘のファッションかもしれない)

そう思うと、ファッション史は、やっぱりライトな思想史です。


でも、ずっと、女性にとってのファッションは共闘のためのものではなかったはず。

そういうエッセンスをファッションにぱらぱらーっとふりかけて純粋に(搾取されつつ)楽しむファッションはあったけれども、

いまでも、女子が着飾るのは自分(一個人)を欲求の対象にしてもらうこと、いわば目的化してもらうための行為、というところはまだ変わらない。

スポンジケーキだけでもおいしいけど、クリームつけたほうがもっとおいしい!みたいに、

女の子ってだけで求められるけど、着飾ったほうがなおよし。という考え方。


でも最近は、ファッションが着飾る、嘘っぽいもの、はりぼてっぽいものだっていうのが、着ている方にも、それを選ぶ男性にも意識されるようになったんじゃないでしょうか。

それはファッションのトレンドのなかでアンチ・ファッション的なノームコアが流行ったりするところにも明らかだし、「スタンダード」という言葉もよく目にします。

ファッションは不自然にも自然体を”作り始めた”のです。


着飾ること、着飾るひとっていうのにはどうしてもハリボテ感・コスプレ感が拭えない。

そういうびんぼっちゃまくん 的なファッションってかっこ悪いんじゃないか。

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そこで、「私は着飾っているんじゃなくって、もとからこういう私です!」をそれとなく、それとなく主張できるのがInstagramをはじめとしたSNSなのです。

びんぼっちゃまくんのようなはりぼてではなく、全裸で勝負してます!とでも言うように。(例えです。)


見ている方も、発信する方も自分が主張している、ファッションしている、っていうのには自覚的じゃないかもしれないけど、その点では少し前までの服となんにも変わらない。

だからわたしはInstagramが、これまで服が担っていたファッション、もしくはそれ以上のものを担っているんじゃないかと思うのです。


お洋服屋さんで服以外の、本とか家具とか雑貨とかアートとか、コーヒーとか植物とかを売るライフスタイル提案型ショップもかなり増えてきてますよね。

Instagramはそういうショップの提案したい”ライフスタイル”とかなり深い相関関係にありそうな気もします。


最近は”量産化女子大生”という言葉もあるくらいで、

シーズンの変わり目にはユニクロH&Mからハイブランドまで似たようなデザインが並びます。

最近のギャル誌の立てつづけの廃刊を見るとギャルが減少傾向にあるのは明白です。

派手なもの、浮くこと、を避けるのが、服=ファッションの役割になってきているようにも思えちゃう。


ではどこで差別化して、どこに価値を見出してもらうか。

今、それを担っていくのがInstagramなのです。


「代官山蔦屋でお茶〜」もしくはハッシュタグのひとつで、そのひとがカルチャーにも興味のある人間であり、代官山での買い物を楽しめるような(経済的にも)女性であることがわかるし、

「〇〇(人の名前)と♡」だけで、「わたしはこの子と仲がよくて、こういうことをして遊びます」とかかなり奥行きのある情報が伝わるので、自分のマウンティングorカースト設定もかんたん。


ファッション(だったもの)は、服だけで達成されるものでなくなっているのです。


わたしは写真を勉強しているので、こういう写真が新しく担った役割を大変興味深く思うし、

リチャード・プリンスがInstagramの巨大作品を作ったみたいに、いまこの瞬間にも想像を絶する数の写真がSNS上に増えていくのだと思うと実際にその写真ソースは超・巨大。

しかも、それらの写真が表層的なファッションだけじゃなくて奥行きのあるファッションとして個人を飾り立て、立体的に作りだすとき、”写真”はますます巨大になっているような気がします。


ファッションの変化は、男性の女性化、女性の男性化っていう服装のジェンダーレス化の動向もすごく面白いけど、わたしはもはやファッションが服じゃなくなっていくところが面白いなと思います。


とか言いつつお洋服大好きだけど。

ことしはBarbourのinternational jacketが欲しかったけど、お金なさそう。。


服で着飾ることができないので、Instagramで自分作るしかないかな!

シャンプーのコマーシャルでの「かわいいは、作れる!」ってなんか批評的?にも聞こえてきちゃうね!


アート以外のこともこうしてたまには書いてみようかな。では。