おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

越後妻有アートトリエンナーレ『大地の芸術祭』


越後妻有にいってきた。(10日~12日)
雑記・備忘録です。

今回わたしがいちばん感動したのは、越後妻有の棚田だったと思う。
棚田って、向かいあって意識して見るのは初めてで、
(新幹線の窓から一瞬見たことはあっても)
棚田、本当にきれいで、夜景みたときと同じような気持ちになった。
夜景をみると、あの光のひとつひとつが誰かの灯りなんだと思うとすごくあったかいものに感じるんだけど、棚田もそうで、あの段々、稲穂、米のひとつひとつが命になってんだよなあ、とか思って少しうるうるした。生命力。

そういう、愛すべきものが、確かに越後妻有にはあったわけなんだけど、
大地の芸術祭』は、かなり地元のひとたちのためのもので、あの場を訪れた自分のよそ者感を強く感じました。

過疎化が進み、空き家や廃校が増えていく中で、自分たちの記憶とふるさと、場所を守るツールとしての図画工作。
そこにある、絵画、彫刻、写真は、東京の美術館にあってはほとんど成り立たないもの。
空き家プロジェクトの作品は確かにサイトスペシフィックではあるのだけど、日本のそこかしこで起こっている問題だし、美しい自然は、わたしが感動した棚田でさえ、日本のいたるところにあるわけで、日本のどこでも可能。(だから、日本の縮図として理解することもできるのでしょう。)

もちろん自分の出身の学校が廃校になったあとなば、ああいう使い方されてるのはとてもうれしいとおもう。そこで過ごした彼ら(当事者)のためになっているとおもう。
(でも、変化には、悲しい面がもちろんあることは覚えておきたい。)

旅をするほうを受け入れるものではなくて、旅するひとのためと見せかけた、旅するひとを受け入れるひとびとのための芸術祭。

地域のひとびとの図画工作をアートとして取り込む姿勢には、アートでけえ〜とも思ったのだけど、アール・ブリュットの派生語みたいなもので、そういうアートの在り方を表せないだろうか、と思ってしまった。
アート・ツーリズムっていうのとも違う気がするし。。

わたしは、アートは、特に現代アートは、作品を介したコミュニケーションだと考えたいから、現代アートと、現代のアートは異なるって思う。
越後妻有の作品は、作品の中に物理的に入れるって言う意味では双方向性があるのかもしれないけど、一方的に話を聞かされているかんじで、他の言説が許されてなくて、閉鎖的。

現代のアートではあるけど、現代アートではないようで、鑑賞(干渉)する余地がない印象。

たぶん、アール・ブリュットも本来はそういうもので、
こども、精神障害者、犯罪者の絵画を見て、なにかを勝手に見出す、という図式なのかなと思う。それと少し似ているような気がしました。まわりがわずかに上から目線というか。

でも、ほんとうに、地元の人々のために、地元の人々が自ら制作に参加する芸術・芸術祭を鑑賞して、なにか見出す余地はあるのか?

たしかに、共同制作によって完成した物体とその場と人の関わりを見ればそれが必要なこと、それが彼ら自身にとって生きる道であり、土地やその場の思い出を守る方法であることは明白だけど、その閉鎖的で内的なものをアートとする、アートの懐を拡張するようなあり方には、混乱してしまった。

例えば、カルチャーセンターでお年寄りが作るレベルのもの(技術・内容)が、アートトリエンナーレのプロジェクトのひとつとして組み込まれてるんじゃないかっていう懸念。

かといって。
キナーレにあったホワイトキューブの作品がアート的、ならば、大地の芸術祭全体はもちろんアート的ではないけど、知的貴族のゲームとしての現代アート
地元、場所、人を巻き込むことのない閉鎖的なホワイトキューブ内の攻防が、
アートの在り方だとするとそれは、金沢21世紀美術館で感じて憤ったもの(そのうち書きます)になってしまうのかもしれない。

(でも21世紀美術館もあ・き・ら・かに、現代アートをさらにわけわかんなくしているとわたしはおもう。「現代アートwwwwww」みたいな言説が増えちゃいそうっておもう。それらしく、ホワイトキューブにわけわかんない、内容のあってないようなもの(本当は意味あるのに)、その意義とか、新しさとか、わかるように言ってくれたらいいし、それが美術館のやさしさじゃないか?と思うから、「わたしはこう思います」っていうのがあれば、見ている人も「こう思います」が言いやすいからそう言えばいいのになー。なのに、〜性、〜性、〜化、とかなんでそういう小難しいことばをつかって、そして、能動的に、説明文を手にとって読む、という行為がなければ、その〜性にもたどり着けないってどういうことなんだと思う。それもまた別の意味で閉鎖的。)

あと、今年の大地の芸術祭はダンスとか演劇とかが多いみたいなんだけど、それも、教育としての美術・鑑賞教育の観点がないことの現れだと思う。
アーティストインレジデンスの考え方、作る側の教育みたいなことにやっぱり比重がいってる。

鑑賞してくれる人がいなかったらアートって成り立たないってやっぱおもうし、
どんな絵をかいても、
それが、いかに相互干渉的な作品であれ、ひとの目に触れなかったらなんにもならないじゃないか。

わたしは、アートが生き残る道として、大地の芸術祭を正解だと思えない。
ただ、地域が生き残る道としては、大地の芸術祭が正解だと考えざるをえない。

先生はアートが掃き溜めみたいになってきてると言っていて、ほんとうにそうだと思った。
アートっていう大きい懐に受け止められることではあるけど、なにかラベルづけできればいいのにと思う。差別的でしょうか。。

なんとなく、あそこにあるものにはもはや鑑賞する意味はなくて、たまに人が来てくれて、なんとなく作品を見て(≠鑑賞)、存在することに意味があるみたいだ。

成り立たせてあげたい(この都会からの上から目線なんなんだろうね)のはわかるんだけど、
ジェームス・タレル、クリスチャン・ボルタンスキ、塩田千春、大巻伸嗣、アネット・メサジェあたりの、招致された著名なアーティストの作品は過疎化と少子化から発した人間の不在とかの暗くて寂しいイメージを突きつけるようなものが多くて、むしろ地域のひとたちがこの作品に対していい印象を持つのかも疑問に思います。

結局お祭り全体のメッセージにもぶれがあるような気がしてしまいました。