おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

ソフィ・カル 《限局性激痛》のエグみ


ソフィ・カルについて、
この鑑賞体験が現段階でわたしの中ではベストで、そしてワーストになりそう。

彼女のことは、偶然出会った男性を尾行してパリからベネチアまでついていったり、自分を探偵に尾行させたりした作品を大学3年のときにはじめて見て知って、大好きになった。

中身がない(ように感じた)写真の勉強に飽き飽きしていたわたしにとって、アートフォトの世界を楽しむきっかけになったアーティストです。


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かわいいひとです。

でもカルの作品を見ると、いつもなんとなく、気がかりなことがありました。

彼女の作品を見てるとなんだか少し悪いことをしているみたいな気分になるのです。


例えば〈Blind〉っていうシリーズでは盲目のひとに「あなたが今まで見たなかで一番美しいものはなんですか」と聞いて、得られた答とその風景の写真を一緒に展示しています。

Sophie Calle: Blind

Sophie Calle: Blind


その試み自体はすごく面白いと思えるけど、なんかいつも、これっていいのかなあという気になる。

でも、今日、〈限局性激痛〉を見て、そのソフィ・カルのエグみにはじめてきちんと向き合った気がしています。

ソフィ・カルの99年の作品〈限局性激痛〉は、
2つのパートに分かれていて、いま、原美術館で見ることができるのは後半のパートです。

前半は、ようやくの思いで手に入れた恋人をパリにのこして日本に3ヶ月留学することになったカルが、留学中に彼を思ってつづった手紙と写真と、彼からの手紙と、不幸までのカウントダウンで構成されています。

そして、彼に会うはずの日に届いた唐突なメッセージによる分断。
今回展示されている後半は、彼からのメッセージと残酷な行動による最悪な夜のことを他人に語って、それと引き換えに他人の辛い経験を聞いて自分の傷を癒していくというパートになっています。


実はわたしも1年半くらい前にすごく悲しいことがあって、
大事なものを何重にも失って、いまもまだそれが増えないかびくびくしているし、つい最近も増えたところで、丸腰・傷むき出し・ノーガード状態で、ソフィ・カルにフルボッコにあってしまいました。

後半のカルの語りは全部、「x日前、愛している男に捨てられた。」という文句で始まるので、彼女風に言えばわたしも「420+x日前、云々」となるわけですが、
作品を見ながらわたしも、わたしと彼女の、あの日のあの気分にポンと投げ込まれて、はじめは自分の悲しかったこととソフィ・カルのエピソードが自動的に重なってどんどん悲しくなる一方で、まさに激痛です。心臓つぶれるかと思った。。。

だけどそのうち、ソフィ・カルがたずねた他人のエピソードの痛さがだんだんエスカレートしていくことで、カルに起こった、そして自分に起こった不幸な出来事なんか大したことないかもって思えるようになっていました。
痛みによる痛みの治療をわたしも一緒に受けていたようです。



ところで、幸せについて語るとき、「地球のどこかの恵まれない子供たち」が出てきて、
わたしたちを彼らと比べて、「ご飯が食べれるだけでも幸せ」とか「服を着られるだけでも幸せ」とかそういうふうに考えなくちゃいけないときがあるけど、わたしはそれを認めることができないなと思う。
もちろん改善すべき状況がそこにはあるんだと思うけど、わたしたちが今直面する不幸と、ご飯を食べられない不幸を比較して考えることなんてわたしにはできない。不幸のかたちや質が違すぎて、ほんとうなら重さを比べられないけど、それでもそういう悲しさの治療法ってある。


ソフィ・カルがこの作品で誰かから聞いたエピソードは、全くそれみたいに、不幸の肌触りがぜんぜん違うものの集積。
なのに、それ同士の大きさや重さを比較して、もう大丈夫だって思うことってほとんど無駄で、ほんとはなんの治療でもないし、今となっては誰かの痛みで自分の痛みを治療するのって、なんて乱暴な自己防衛だっ!って気がしてくるのです。
〈限局性激痛〉の鑑賞体験と、この制作プロセス(とされているもの(=彼女の作品は真偽がわからないのです))って、
すごく日常生活のなかで頻繁に出会う乱暴な態度で、
一生懸命心配しているふりで自分が心配してほしいとか、
心配しているふりで引き出した苦労話を自分の靴底に入れて少し自分を大きくするみたいな、他人の不幸の乱暴な搾取みたい。
いまは〈限局性激痛〉でソフィ・カルの治療と搾取に自動的に自分も加担してたことにゾッとしている。
癒されたことにげんなりする。
自分の悲しかったこと引き出させた〈痛み1〉うえで、それを治療してくれて〈フェイント?〉、その治療のいやらしさに気付かせる〈痛み2〉この作品は、二重で痛い。

なんだか卑しい気持ちの結晶を食わされたみたい。ペッペッ


自分の卑しさの味を考えてると、新しく、また別のところが痛いけど、おセンチでなんかいられなくなる。
悲しいのと卑しいのと満タンでゲップ出そうで出なくて苦しいですってかんじ。

ずっと、芸術のなかの暴力-暗さとか、グロさ、エロさ-の意味と強度についてかんがえていて、基本的には芸術の暴力の強さが大嫌いだった。
ソフィ・カルのこの作品もある種の暴力だと思うけど、カルの場合は、鑑賞者を加害者にするから怖い。同じように〈Blind〉も、そういう共犯関係を、カルと鑑賞者の中に起こしてるから、ちょっとどんよりした気持ちにさせるのでしょう。

今までは、なんとなくなーあれだなーと思っていただけだったけど、
今日、そのエグみを思いっきり食わされる経験をした気がします。
でも、この痛さを知ることができたので、この作品の経験はすごくよかった。

みなさんの感じ方はわたしと違うかもしれないけど、
それでも、何かしらかの痛みがあるんじゃないでしょうか。。。。



原美術館の[ハラドキュメンツ10]東京尾行 / 佐藤雅晴と同時開催中のコレクション展にて。

佐藤雅晴の「東京尾行」も、コレクション展の別の作品もとっても見応えがありましたので、ぜひです。


Douleur exquise

Douleur exquise


買っちゃった☝︎
〈限局性激痛〉フランス語版(日本語訳冊子付き)なので、自分で訳したら勉強になるかな。。途中で辛くなっちゃうかな。。


「ハラドキュメンツ10 佐藤雅晴―東京尾行」
Hara Documents 10 Masaharu Sato: Tokyo Trace
2016年1月23日[土] ― 5月8日[日] 
原美術館 ギャラリーI、II、他

*会期中、原美術館ギャラリーIII、IV、Vにて「原美術館コレクション展:トレース」を併催。「ハラドキュメンツ10」に出品する佐藤雅晴の制作技法・トレースにちなみ、他人の苦しみをなぞることで自分の苦しみを相対化していくソフィ カルの『限局性激痛』(第2部)や、名画の登場人物や現代のイコン的な人物に扮することで“模写”する森村泰昌の作品等を展観します。



ぜひです!