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おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

クレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」を嚙み砕く。

 
「なんで今更、敵対と関係性の美学?」って感じかも。。
知らない人にとっちゃ、なんやねんそれって話だし。
 
 でも自分のお勉強のために、わかりやすく残しておく必要性を感じているので、ザックリとここに書いておきます。
 
 「敵対と関係性の美学」はクレア・ビショップという美術批評家が2004年に書いた美術評論で、
下敷きには、その5年前に発表されたニコラ・ブリオーの「関係性の美学」があります。
 
現代美術における「関係性」という観点は、90年代以降の現代美術にとってとても重要なもので、
作品を見る際に持っていると、作品が立体的に見えてくる3Dメガネのような存在です。
 
では美学美学ってゆうけど、まず、その美学ってなんなのか。
 
男の美学とか、「♪THE美学」(あやや)とか言いますけど、学術としての美学もそんなに遠いものではないとわたしは思っています。
 
男の美学っていうのは、その男性が「こういう思考回路で、こんなものを選ぶとモテる」というその「見立て」、だとすると、
ここで、ビショップやブリオーたち、美術批評家の「xxの美学」という論文は、「こういう思考回路による、こんな作品が、新しい美を備えているのである」という「見立て」なのです。
 
 そして、ここでの新しい美は、古くからある「美しい女性」、「美しい風景」、「美しいハーモニー」とかに使われる「美」とは異なります。
 
 ニコラ・ブリオー(以下、ブリ男)は、「関係性の美学」で
90年代に登場したある種類の作品に関して、これは、新しい美=新しく美術が持つべき価値を持っている!と述べました。
 
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 ブリ男(イケてる)が、新しい美を見出したのは、リクリット・ティラヴァーニャと、リアム・ギリックらの作品です。
 
 
ここでは、特にわかりやすいティラヴァーニャに話を限定したいと思います。。(リアムごめん)
 
タイ人の両親を持つティラヴァーニャ(てじなーにゃ☆っぽいよね)の作品は、92年に初めて公開されました。
 
 
公開されたと言っても、彼は、アートギャラリーの裏にある備品、そして、二種類のカレーが入った鍋をいつも美術作品がある展示空間に置いただけ、だったそうです。
 
 そこには、いつものアートギャラリーのように、絵もなければ彫刻も、荘厳な音楽もなかったけれども、多くの人が集まり、ギャラリーのなかで談笑し、展示期間中のギャラリーでは、毎晩そのようなコミュニケーションが起こったのだそうです。
 
特別に心を傾ける対象(典型的な美術作品)の代わりにそこに新しく「関係性」が生まれていたのです。
 
 
 こちらに映像で記録があります。(3分ほどの映像です)
 
 
それまでも、参加型の作品や、「双方向的」と言われる作品がありましたが、ティラヴァーニャはその究極といった感じ。
 
この流れの背景には、もともと偉い、貴族のものだった美術を民主主義の時代にふさわしいものにする、という思いがあり、ブリオーは、まさに、この作品こそ民主的で新しい!と、「関係性」の部分に美を認めたのです。
 
 
 確かに、鑑賞者の参加や使用によって完成が実現するこの作品は民主的と言えそうです。
 
しかし、「敵対と関係性の美学」で、
クレア・ビショップはブリ男に突っ込みをいれます。
 
 
「ちゃいますやんか!」
 
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「どこが民主主義やねん!」
 
 
なんだか怒っています。
 
 同じく美術批評家でキュレーターであるクレア・ビショップは、ブリ男の考えに対抗して、ふたりのアーティスト、サンティアゴ・シエラと、トーマス・ヒルシュホルンを揚げて
真に民主的なのは、「敵対」という新しい美を備えたこっちの人たちの作品だ!と反論します。
 
「敵対」は、ラクラウとムフという社会学者が考えた概念で、
本当に民主的な社会っていうのは討論や議論ができる土壌がしっかりとした、あらゆる敵対意見が存在する社会なのだとする考え方です。
 
「敵対」がなくなってしまった社会とは、議論が封じられた、対立関係が消去された社会であると、ラクラウとムフは言います。
 
 そんな「敵対」要素があるとビショップが語るサンティアゴ・シエラの作品がこちらです。
 
 
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こちらは《4名の人々に彫られた160センチメートルの刺青線》。
 
この作品はこのようなモノクロ写真と短い文章で構成されています。
 
作者のシエラは、この作品を作るために薬物中毒の娼婦にヘロイン1回分の料金を報酬として支払って、パフォーマーとして雇い、4人の背中に合計160cmの刺青を入れたのです。
 
 環境によって、報酬の価値が異なること、
「自分たち以外の存在」を出現させるこの作品は、「敵対」の要素を持っていると言えます。
 
 ビショップは「敵対」の要素を持たないティラヴァーニャの作品を、
閉じた、異なる環境にある他者の意見が封殺された場所であると批判したのです。
 
 実際ティラヴァーニャの作品を鑑賞した人の批評を引用しています。
その批評家を女子高生っぽくすると、こうです。
ティラヴァーニャのギャラリーで、全然知らない人としゃべったりしたけど、たまには悪くないよね。あたしもみんなもアート系の人だったから、別のアーティストの新しい作品の話とか聞いたりして。結構、盛り上がったよね。別の日なんかは、「今日めっちゃダルいから、ティラヴァーニャんとこいかない?」って友達が言いだしたりとかして、マジ新しい場所で超不思議な感じしたわー。
 楽しそうです。
 
しかし、 これを踏まえてビショップは、
 「これってさー、結局アートやってるひとたちの超内輪的なお楽しみじゃない?」
「実際、みんなアート畑のお利口さんだからハッピーな感じになってるけど、それって、アート畑のお利口さん以外いなかったことにしてない?」
「それのどこが民主主義なの?超権威主義じゃね?」
 と、語るのです。
 
ティラヴァーニャたち、ひいては、ブリ男の「関係性」が同じ常識を共有した者のなかにおけるものだったのに対し、サンティアゴ・シエラの「関係性」は「敵対」を意識させる点で本当に民主的だ、としたのでした。
 
これがクレア・ビショップの「敵対と関係性の美学」というエッセイです。(雑ですけど)
 
実際のところ、この議論で名前のあがったアーティストたちは、
ブリオーの推しメンであれ、ビショップの推しメンであれ、現在、世界各地で行われている現代美術のお祭りに引っ張りだこの超人気者です。
 
そう見ると、やはり、「敵対」はともかくとして、「関係性」は、現在の美術を見る上では欠かせないものであることは間違いないでしょう。
 
「敵対」のアートはやや悲観的だし、安易に用いられるようなものにならないことを望みますが、訴える力、思考させる強さ、みたいなものには、「敵対」の要素がやはり必要な気もします。
 
もし、美術館にいって、そこにある作品のなにを見たらいいかわからない、、、、と思うことがあれば、(わたしはすごくよくあります。)
 
もしかして、これは、作品(物質)に注目するのではなく、非物質(に注目すべき作品なのかもしれない、と考えると少し、作品がわかった気になれることがあります。
 
そしてお分かりのように、現代美術っていうのはこういう、見るための「考え方」や、作品のレシピ、あるいは3Dメガネのような見るために必要不可欠なアイテム、みたいなものが必要とされるものでもあるのだと思います。
  
そう思うと、多くの丸腰の人を呼び込む印象派って不思議だなー。
 
よし、私自身もこれを書いて勉強になりました!お付き合いいただきありがとうございました。
 
また長くなっちゃったー。
それではまた。