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おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

写真の表面張力 - トーマス・ルフ展@国立近代美術館

 

ちかごろの写真は、「もう写真じゃないじゃないか!」と言わせることが目的なのだといっても全く過言ではないと思います。

 久しぶりに写真特集をしている美術手帖には、あの、わたしたちが知っている「写真」から遠く離れ、それでもなお写真と名乗っている作品が数多く紹介されているのですが、今回のトーマス・ルフ展と合わせておすすめしたいです。

 

美術手帖 2016年9月号

美術手帖 2016年9月号

 

 

この特集に登場する写真は、まさにギリギリ「#photograph」。

タグを付けて写っているものを主張するインスタグラムの写真みたいに、作品自体がこれは「写真である!」と名乗っているみたいです。

 そして、紹介されている写真家・アーティストたちはまさに、「写真(という概念)を拡張している」といえます。

 

トーマス・ルフは、そんな、「写真を拡張する」写真家たちの先頭に立ちながらも、同時に「写真であること」をとどめようとし、とどまろうとしている写真家なのだなあと、今回の展覧会を見て感じました。

 

f:id:yzgz:20160907174807j:plain 〈Portrats〉

 

展示室内に入って真っ先に目に入る大きなポートレイトのシリーズは、彼の代表作であり、その後の現代写真の方向性を定めた一作とも言える作品です。

この作品にまつわるエピソードが展覧会で紹介されていたので、引用します。

 

写されているのはルフの友人たちだ。当初このシリーズは、24×18cmという常識的なサイズのプリントで発表された。その展示を見た友人たちは「これは誰それだ」と、写された人物を話題にしたが、次に巨大に引き伸ばした作品を展示すると、彼らは作品の前で「これは誰それの巨大な写真だ」と言うようになったという。つまり人々は写真を見ているということに自覚的になった、ということだ。

 

わたしもルフの写真をみながら誰かとおしゃべりができたらもっと楽しかっただろうに!と思いました。

そして、このエピソードを読んで思い出したのは、最近行った別の写真展「アルバレス・ブラボ写真展 - 静かなる光と時」で出会ったブラボ氏によるこんな言葉です。

 

どの芸術にも共通する詩情は、

シンプルな手立てを通して得られる、複雑な現象の表現です。

そうした手立ては自らに正直で、おのれの限界にも忠実です。

しかしひとたび情熱が注がれ、静けさの中で口を開くと、雄弁になるのです。

by アルバレス・ブラボ

f:id:yzgz:20160907190334j:plain (これはブラボの作品です)

 

 

ご覧の通り、ブラボとルフは全く、まっったくタイプの違う写真家ですが、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」点では、おなじ。。

というより、「シンプルな手立て」で「複雑な現象」を「雄弁に語る」芸術こそが素晴らしく、それこそが芸術の素晴らしさなのだ!と、ブラボに言葉を与えてもらい、気づかせてもらったように感じています。

 

「写真を大きくする」そのシンプルな手立てのみで、「写真が写真であること」、「写真とはなにか?」そんな問いを立てることができるルフはやっぱり天才!ラブ!

 

 ポートレイトのシリーズや建築写真のシリーズなど、この頃の写真は「写真」という体裁を整えながらも、それまでの多くの写真芸術(それこそブラボたち)が発してこなかったタイプの「写真とはなにか?」というメッセージを発しています。

 そして、彼の写真は、「絵とはなにか?」という自問によって発展した美術の歴史をなぞるように写真の歴史を更新していきます。

 

 

なかでも、「jpeg」シリーズは、わかりやすく印象派を一歩進めたちょっと科学ヲタっぽい画家たちによる点描画の、現代社会の画像をめぐる実情までも取り込んでいます。

f:id:yzgz:20160907182707j:plain 〈jpeg

 

私もとくに好きなシリーズです。

 

  f:id:yzgz:20160907183016j:plain

 

印象派の画家たちは、細かな筆致の重なりの中で白や、白に近い明るい色の絵の具を使って、「きらめき」のある世界を映し出しました。

もちろん「きらめき」はそれまでの画家にも見えていたはずですし、こんな風に見える風景もあったはずだと思いますが、当たり前にきらめいていた世界を「こんなにきらめいているよ」と図示したという意味で画期的だったんじゃないかな、と思います。

 

ですが、彼らの絵を見て「なにも見えない」「なにも書かれていない」「汚い」と評した批評家がいたように、わたしたちもルフのjpegシリーズのような画像を、何かの画像を検索する途中で見つけたら、「つかえない」「荒い」「汚い」というに違いありません。

 わたしたちは、デジタルの登場によってこの新しい映像(画像)の世界の中に、当たり前に生きていて、モニターによって写真を見るという体験を構成するビットにどんどん出会いにくくなっているんですよね。

 さらに、この荒れてビットでガギガギの写真が大きく引き伸ばされていることは、まさに、この写真がネット上を駆け巡って、何も感じられなくなるほどに拡散されている様を写しているようです。

 

そして彼の写真はもっと抽象的になっていき、はじめにあったポートレイトのように、「これは◯◯だ」と示すような具体的な像を示さなくなっていきます。

 

f:id:yzgz:20160907192056j:plain 〈r.phg.03〉

 

この作品をはじめ、彼の抽象写真は、元の画像がわからなくなるほど重ねられた加工や、仮想暗室だとか、、、、写真というコップに可能性の液体をこれでもか!と注ぎこむような感じですね。

 

 

しかし一転、2014年になると写真に像が戻ってきています。(〈negative〉や〈press++〉にて。)

f:id:yzgz:20160907193227j:plain

(写真が反転されると、被写体の性別もわからなくなる・・・)

(この人が男性なの、びっくりしちゃった)

 

私は彼の写真に像が戻ったことに、彼の写真に対する表面張力のようなものを感じます。

決してこぼれ落ちることなく、コップ(写真)のふちにとどまる力のようなものです。めいっぱい写真の可能性を広げながらも、写真を写真以外のなにかにすることなく、通り過ぎた写真であったセピア写真に新しい可能性を見出す試み。

 

 

 最後に、今回、一番感激した作品〈mars〉シリーズを紹介します。

f:id:yzgz:20160907185651j:plain    f:id:yzgz:20160907185711j:plain

もちろんこれはどう見ても写真ですが、決定的に写真を進歩させていると感じました!

 

わたしは、写真について「過去のある1点を写す、から、制作段階のあらゆる選択を残すメディアになっていってるなー」なんて、美術手帖をはじめ、いろいろ読んだり見たりしながら考えていたのですが、ルフによる、このからっとした、軽やかでハッピーな裏切り!テンションブチ上げです。

そして、赤青3Dメガネにも大興奮。

 写真が未来を写すという、なんとも新鮮で、いつくるかわからない未来に親近感がもてる作品。

ああ写真ってまだまだおもしろいなあ!と、とっても嬉しくなりました。 

 

この秋は、写真展が多くて大忙し。

新しくなった都写美で杉本博司大先生(大好き)、原美術館で篠山エロ紀信などなど。。。

 国立近代美術館で、開催中のトーマス・ルフ展、グッズも充実してましたし、丁寧な解説のおかげでよく知らなくても楽しめるのではないでしょうか。

 ぜひぜひ足を運んでみてください!

www.momat.go.jp

 

イケてる特設ページも↓ (インタビューも読めるみたいです)

thomasruff.jp

 

写真撮影可なので、インスタ映えのおしゃれスポット間違ねーぜ!

 

また長くなっちゃったな〜〜〜

ぜひです。