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おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

ボブ・ディランのノーベル賞受賞に思ったこと - 「文学」のふしぎ

実のところボブ・ディランには特別な思い入れはないし、わたしはとても読書家というわけではないんだけど、本を読むことは好きだし、文学というものも好きだと思う。

 

たぶん、文学よりも「これぞ、文学だ!」と、言われている映画とか漫画、美術作品、いわゆる、「文学だといわれている文学以外のもの」が好き。
「これぞ、文学だ!」という言葉は、文学に使うこともあるだろうけど、
ふしぎに形容詞的な、なにかしらの雰囲気を示す使い方をされている言葉ですよね。


最近だと田根剛の建築について杉本博司が「文学的な建築」だと言っていて、なんとなーくエストニア国立博物館、確かに文学っぽい建築かも、としっくりきてしまいました。

 

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  (あんまりいい写真がないみたい。詳しくは情熱大陸の動画を、、どこかに落ちてるはず!)

で、ノーベル文学賞を、ミュージシャンが受賞したわけですがこれまた、文学だといわれている文学以外のもので、、、「文学」って言葉にちょっと酔ってきました。

 

たぶん、ボブ・ディランが賞を授与された意図は、文学の概念の拡張なんじゃないかなと思っているんですけど、
現在のノーベル賞のカテゴリーの中で美術や音楽は(たぶん平和っぽいもの以外)賞の対象にできないなかで、ノーベル賞が与える文化的な賞のカテゴリーが文学賞であることはなかなかにおもしろいことだと思います。

 

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 イケてる。。。

 

 ただやっぱりそうなると、文学ってやっぱりほかの芸術よりも上位っぽい感じがなんとなくするし、そうなると、「文学的」は最上位の褒め言葉ってことなのかもしれない。


そして、ノーベル文学賞はそのうち、「文学的な文学以外のものにも『文学』という最高の褒め言葉を与える」賞になるのかもしれませんね。

じっさい、経済学以外の賞は、ノーベルさんの遺言によって設立されているようなので、ノーベルさんが文化的なものの至高のものを文学だと思っていたのかも。


というのも最近、「写真とはなにか?」という2013年の(最近!)の論文を読んでいたら
サルトルの「文学とはなにか?」が発表された時(1948年)の文学の状況が、現代の写真の状況に似ているよね、という内容で、なんだかホットに感じたからなのです。

 

実際、文学の概念の拡張や転換、戦前までの文学に対する疑いは、戦後の混乱のヨーロッパにおいて、1948年には言われていたことなんじゃないかなと思うんだけど、ボブ・ディランノーベル賞受賞によって、狭くて、敷居の高〜い文学理論から、ようやく昨日、(約70年後に!)世間一般の理解の範疇に浸透しはじめるんだと思います。


先日トーマス・ルフ展について書いたとき、「最近の写真は、写真という概念を拡張している」と、書いたのですが、全世界が注目するノーベル賞で大胆にも文学の概念を拡張する文学のポピュラーさには、ボブ・ディランをよく知らなくても素直に、すっきりとした心で喜べます。

 

対して写真の概念の拡張は、現代美術の世界のなかで、いまひっそりと行われているところ。あるいは、ようやく写真の合成が当たり前になった中で、じわじわと拡張しているところなのかもしれません。

 

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 (フォトショでぐにゃぐにゃ背景の紀香 ) 

 

フェイスブックとかのSNSでは、おもしろ写真とかびっくり動画、あと、めっちゃかわいい女の子とか。見ることがありますが、それを見て合成だった時の「がっかり感」、それこそが、わたしたちが写真に期待する写真の姿なのだろうと思います。

その「がっかり感」がなくなったときが、写真の概念の拡張や転換が一般的になった、といえるのかもしれませんね。

 

まあいまから70年かかるかもしれないけど、その頃に写真ってあるのかな。。。?
文学か、「文学だと言われている文学以外のもの」はあるかもね。

あるといいなー。

 

と、結局写真の話になりましたがきょうはこのへんで!

では!