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おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

「パロディ、二重の声」展で、深く暗い川について考える。


ご無沙汰です。
東京ステーションギャラリーで「パロディ、二重の声」展を見てきました。

www.ejrcf.or.jp

 

ステーションギャラリーの入り口、東京駅のドームのところ、わくわくしませんか!

いつかステーションホテル、泊まってみた〜い

 

さて一昨年、2020年の東京五輪エンブレム問題というのがありましたよね。

 

まずエンブレムのデザインが酷似している、ということが話題になり、更にエンブレム使用予想図?の写真が無断で流用されたものだと指摘され、デザイナーの他の作品までもが批判を受ける始末で、最終的には政治利用っぽい感じもありつつ、結局審査し直し。

その上デザイナーの出身大学であるタマビの別の学生にまでパクリ疑惑!とかなって炎上にあしたりして。正直に言って、どうかしてるぜ〜。な状況でした。

 

この一連の出来事で、世の中の多くの人とデザインやアートを生業にする人との間には、深ーくて暗ーい川が流れていること、そして、アートやデザインの孤立みたいなものを、私は目の当たりにした気がしました。

 

そんな出来事によって明らかになった深く暗い川に対して、美術の展覧会ができることはなにか、というと、「正当なパクリ」としての引用やパロディについて考える場をひろく提供することなのだと思います。


(もちろん、あのエンブレム騒動は佐野氏にも若干の落ち度があったと思いますので、「正当なパクリ」ではなかったかもしれませんけど、パロディや引用などの手法を「パクリ」というレッテルをはって批判するのはもったいないと思います。)

 

今回の「パロディ、二重の声」展はあのときにアートやデザインの側につきつけられた「美術(orデザイン)におけるパクリとは何か?」という問いにアンサーを返すような展覧会でした。

その展覧会テーマが集約されている横尾忠則の作品を見てみましょう。

 

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左側は「パロディ、二重の声」展のポスターに使用された1968年の東京五輪亀倉雄策の超イケてるポスターを引用した横尾忠則の作品。

右側は、元の亀倉さんのポスター。今見てもフレッシュ。

 

この横尾の作品がメインビジュアルとされたことで〈オリンピックと「パクリ」〉というキーワードによって、なんとなく70年代前後と現代のアートやデザインが繋がってくる気がします。

 

 横尾の作品「POPでTOPを!」にはこんなセリフが書いてあります。

POPでTOPを!
芸術貧の方は「POP」印のカンヅメで
TOPをかちとろう.....!

よくよく見ると、ここで走っているのは、手前からピカソ、ルオー、スーラなどなど。超豪華メン。

そんななかで先頭(トップ)を走るのは、リキテンスタインポップアートの代表的なアーティストです。

 

 f:id:yzgz:20170410190936j:imageこんな作品を作っています。

 

 彼は、高尚ぶったアートに大衆的でポップなカルチャーとしての漫画を取り入れ、その1コマを拡大したような絵画を作りました。つまり芸術とは言えない一般的な娯楽のひとつであった「漫画」をパクった、といえるかもしれません。

さらにリキテンスタインの絵にはもうひとつ「パクリ」があります。

それは彼が絵に使う色。赤、青、黄の三色は、抽象画家のモンドリアンがよく用いた色使いです。

 

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こうしてみると、リキテンスタインは「パクリ」だらけのアーティスト、ということになりますが、彼は最も高く評価されている現代アーティストのひとりです。まさに、トップを走っているアーティストです。

 

リキテンスタインなどのポップアートが流行した60年代(日本では70年代前後)は「オリジナリティや個性を尊重する芸術品」よりも、横尾忠則の作品における「芸術貧(ゲイジュツヒン)」的態度、つまりそれまでの美術史の引用や、それまで芸術品にはなりえなかったモチーフや材料を参照した「オリジナリティを持とうとしない立場」が優位にあったことを示しています。

 

 つまりリキテンスタインは意図的に、バレてもよい、むしろバレたほうがよい、という立場で漫画やモンドリアンを「パクった」のです。

 

この「パクリ方」こそ、リキテンスタインの作品の重要な要素なのであり、「正当なパクリ」であるパロディや引用です。

また、亀倉さんのポスターを「パクり」、リキテンスタインをはじめピカソやスーラなどの絵を「パクった」横尾忠則の「POPでTOPを!」も、パロディであり引用。

 

ここまでだけでも引用の引用、パロディのパロディ、と、今回の展覧会で扱われている作品がとても重層的なことがわかると思います。

故意に真似をして、真似した先を隠す一般的な意味でのパクリとはやっぱり違います。

 

ただ、その違いももちろん曖昧。

 

ではどこからが悪でどこからが正当なのか?

 

いろいろな観点や分け方があると思いますが、

わたしは、パクリとそれ以外のパロディや引用との違いは、それがある種の「ドキュメンタリー」として機能するかどうか、はひとつポイントではないでしょうか。

 

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こちらのフォトコラージュを制作した木村恒久は自分の作品を「ドキュメンタリーとしてのフィクション」と定義しています。

「ドキュメンタリーとしてのフィクション」のわかりやすい例にこちらがあります。

 

 

 

ぷろだくしょん我Sの「選挙演説」の作品です。

 

展覧会ではこじんまりとしていますが、実際は公園にたくさんの空気人形を持ってきて、選挙演説を再現したとのこと。でたらめな選挙演説の音声もついています。

選挙の形式的な儀式や慣習、システムに、「虚しいぜ」と感じた若者アート集団が、選挙を中身が空虚な空気人形を使って「パクった」というわけです。

つまり、選挙演説のパロディ。さらに言うと選挙演説のドキュメンタリーをフィクション的要素の強い人形で行なっているのですね。

 

 さて、これを選挙演説の悪い意味でのパクリと呼ぶか?というとそういうわけではないですね。

 

このようにフィクションを通して世の中や美術の世界の実際のできごとをドキュメントするための「パクリ」はやはり正当なパクリと言ってよいでしょう。むしろ、選挙というフォーマットを空気人形で「パクる」ことで、選挙活動に対して直接的に、「あんたのやってることは空虚だ!」と批判するよりも、すごく強い意味を持つ作品になっていると思うのです。

 
美術やアートにおいて、オリジナリティとか個性を前提とする慣習は未だに根強いです。

学校ではなにごとも真似はいけませんよって教わることが多いしね。特に美術では。。
それは慣習っていうより信仰に近くて、なかなか簡単に変えることはできないかも。

たぶんそういう無意識の信仰が、例の深くて暗い川を作っているのでしょう。

 

デザインの世界の常識、昨今のアートの現状、それは必ずしも一般常識ではないし、逆に言えば、アートは「一般常識」との間に深くて暗い川を敷くことよって自らを権威付けている、ともいえるわけです。

 

この展覧会はそういう深くて暗い川を、ライトな面白さとパロディ作品の重層的な引用を明らかにすることによって、すこーしだけ、浅く、明るくしてくれるかもしれません!

 

ここまでたらたらと書いてきましたが、そういうのは無視しても普通に笑えて面白いのでぜひです!

f:id:yzgz:20170411210938j:image しょーもなさ(笑)。

 

残り1週間切ってますがぜひ足を運んで見てくださいませ!

 

 ではまた〜!