おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

実直に退屈であろうとすること。- TOP MUSEUMコレクション展 平成をスクロールする 春期「いま、ここにいること」展

 

TOP MUSEUM(これ、いまだに慣れない)にて、「いま、ここにいる」展を見てきました。

 

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今回は「平成をスクロールする」と題されたコレクション展で、写美が持っている平成に制作された写真を通して、平成の写真がどんなものだったか、そして平成という時代がどんな時代だったかをを振り返る展覧会だったとおもいます。

 

わたしが気になったのは「いま、ここにいる」という展覧会タイトル。

というのも、なんか聞いたことあるなーって感じがしたから。

たぶんこれは、おととし?原美術館で行われた「そこにある、時間」展を思い出したからかと思います。

(そっちについても書いているのでぜひです↓)

asaito.com

 

これらの写真展のタイトルを見るとわかるように、複数の写真をまとめて語るとき、その言葉は「そこにある」とか、「ここにいる」とか、「こそあど言葉+be動詞」的なノリになりがち。

わたしとしては、こういうフレーズ、なんかはっきりしないし、しっくりこない感じがしちゃうんですよね。

そこってどこだよ!いるって誰がじゃ!みたいな。展覧会を見るときの手がかりになるタイトルとしてはどうもつかみにくいし、ちょっと逃げられている感じさえしてしまいます。

 

だけど、こういう、なんかつかみにくい、ちょっと逃げられている感じは、「いま、ここにいる」展を見た感覚そのものでもありましたし、平成初期の日本の写真の特徴ともいえるんじゃないでしょうか。

 

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たとえば、ホンマタカシの郊外のシリーズ。

90年代を代表する写真のシリーズだと思いますが、この淡々とした、冷めた感じが90年代のテンションをよくあらわしていると思います。

わたし自身は、91年にうまれてからずっと、そこそこ「郊外」っぽいところに住んでいるので、90年代の郊外のテンションというものを確かに感じとってきたとおもう。清潔で便利なんだけど、ちょいちょい変なことが起こるし、変なひともいる。モンスターみたいな子供とモンスターみたいな親がいて、年老いていく親の親とかいて、そういうのを見たり聞いたりしながら、自分が「ここにいる」意味とかについて考えをめぐらせたりとかしちゃうわけです。

「別に親が住み始めた場所ってだけだしなー。」とか思ってるうちに

「ここにいる」ことについて冷めた(醒めた)感じになる。

「よくはないけど、別に悪くもないしなー。」的な。

 

そういう90年代のテンションについて、社会学者の宮台真司は「終わりなき日常」と呼んでいます。

f:id:yzgz:20170604113756j:plain (宮台さん)

 

「いま」より良い、「素晴らしい未来」に向かって突き進んでいた社会は、平成になって、ある程度成熟してしまって、ちょっと飽和状態になってしまった。

目指すべきものがないからずーっと平穏なんだけど、とても退屈な日常が続いていく状態、それが「終わりなき日常」です。

(「終わりなき日常」はオウム真理教について宮台真司が書いた本で語られた言葉ですが、平成を語るときには未だによく使われるキーワードです。)

 

さて、写真の話に戻ると、平成の写真と対象的なものとして、昭和の写真があります。

昭和の写真は、日常のなかに、私的な物語を見出したり、特別な瞬間をすくうような写真だったと思います。(もちろん例外もあるけど。)特別というのはつまり、終わりがくるもの、終わりが見えている瞬間を大切に保存しようとすることなんじゃないかなー。

 

アラーキーの「センチメンタルな旅」だとか、

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中平卓馬をはじめとするprovokeのメンバーのアレブレボケ、土門拳の撮るこどもも

 それらの多くが、カリスマ的に言葉を発する写真家本人やその界隈のひとによってさまざまに論じられてきました。写真が言葉を求めていたとも言えるかもしれません。

 

だけど、「いま、ここにいる」展で見られる今回の平成の写真は、別に言葉を求めたりしない。単にだるい、退屈な日常をそのままにとらえておく、という感じがします。

だから、確かに「ここにいる」であり、それ以上に語る言葉が出て来ない。

 

ロラン・バルトは写真論『明るい部屋』で写真の本質は「それは=かつて=あった」を告げることと言っていますが、「いま、ここにいる」も、時勢が現在になってはいますがほぼ同様の意味と言うことができるでしょう。

つまり、「いま、ここにいる」は写真そのものを示す言葉であるのです。

 

昭和の日本の写真家を、文学的に写真を用いて写物語を紡いだり、無意識を投影する一種のセラピーのように写真で世界と向き合ったりしていた、とすると、昭和の写真は、写真に写真以外のものを担わせていたのかも。

 

平成の写真家は、その流れに反発してか、社会の空気を写してなのか、写真を写真として扱い、それ以上に言葉を発したり求めたりしていません。写真にしかできないことを写真でしていたと言えます。

だから彼らの写真は、写真そのものを指す「いまここにいる」であり、言葉の外に出て、余分な意味づけを回避している感じがします。

   

とはいえ、わたしとしては「なにげない日常の風景を切り取る」ってなにげなさすぎじゃない?って感じがしちゃうのですが、退屈でゆるやかに見える平成の写真は、写真でしかできないことに実直に向き合っている写真なのかもしれません!

 

 

今回の「いま、ここにいる」展は、3クール連続で行われる「平成をスクロールする」というシリーズの初回、春期のコレクション展だそうです。

 

あと、夏期、秋期があるようなので、ことしは平成についてじっくり考えてみるのもいいかも!

 

topmuseum.jp

 

あと、TOP MUSEUMの前のスナック気になる。。。

ぜひです!

ではまた!