おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

スパーーーク!する!写真的モチーフとの出会いー 石内都「肌理と写真」@横浜美術館

 

ご無沙汰です。

あけましておめでとうございます。

うっかり年を越して、気付いたら1月も終わっててびっくりしてます。

 

今年のはじめに石内都「肌理と写真」を見てきました。

 

yokohama.art.museum

 

石内都(いしうち みやこ)といえば、木村伊兵衛賞ハッセルブラッド国際写真賞、紫綬褒章を受賞していて、この受賞歴にも明らかなように文字通り日本を代表する写真家。

 

今回の展覧会を見ていて思ったことは、石内さんの扱うモチーフ(被写体)って「写真的」!ということ。

写真的ってどゆことー?ですよね。いまから言います。

 

わたしは、初期のモノクロ作品から、近年の遺品や衣服などのシリーズに至るまで、彼女の写真からは、「触れるとかたちが変わってしまうもの」に対する興味(むしろ執着)を感じます。

朽ちたアパートの壁の塗装や、皮膚に残るしわ、衣服や布のしわ、などなど。

石内さんの写真のこういう被写体の選び方を見て、写真的だ、と感じます。難しく言い換えると、彼女は指標(インデックス)的性質のあるものを追っている。

 

たとえば、ベッドにできたシーツのしわは、そこに誰かがいたことを示すものです。

 

しかもそこに残る痕跡はとてもオリジナルだし、似たようなしわはできるかもしれないけど、わたしだけの、今夜だけの寝返りが、翌朝の二度とないしわを生み出すのだと思うと、なんだかしわもロマンチックなものに思えてきちゃう。

 

そしてその「しわ」は、触れたり動いたりすると「かたちが変わってしまう」はかないものです。(とても神経質になればそのシワを撫でたりすることもできたりするけど、超繊細な手つきにならざるを得ません。)

石内さんは、二度とない一瞬を光の痕跡で保存する写真のように、誰かの人生や時間の経過を受け止めて保存したものたちを選んで撮影しているのですね。

 

ロラン・バルトが写真について、「かつて、そこに、あった」を示すものであると述べたように、衣服のシワもまた、なにかが「かつて、そこに、あった」ことを示すもの。と、なると、彼女の写真は超写真的写真ってかんじ。いや痕跡的痕跡?

 

 

ただしそれらが、彼女の場合、彼女が受けた感覚や興味の方向がかなり色濃ーーく反映された写真になっていて、それらを丁寧に保存し、伝達するために撮影する、という感じではなさそうなことも、こうして一挙に彼女の作品を見て強く感じたこと。

 

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たとえば彼女の撮り方は、被写体が静物なのに水平、平行も不安定だし、正対もしません。寄ったり、離れたり、被写体が画面におさまらなかったりもします。

丁寧に「かつて、そこに、あった」ことを保存することが目的なのであれば、こんな撮り方はあまりしないものです。

 

保存していつか伝えることがしたいなら、こんなに客観的でない構図にはならないんじゃないか、と思います。

彼女の写真はとても主観的で、彼女自身の「こう見たい」「ここが見たい」が超露骨。

 

そこに彼女が「写真的」なモチーフに対する純粋な興味に突き動かされて写真を撮っていることを感じ取れるのです。

 

 

さて、彼女のこうした「写真的な」モチーフとの出会いと、モチーフの持つ歴史がスパーーーク!したことで、彼女の国際的な評価をババーン!と高めたのが「ひろしま」のシリーズ。

ひろしま

ひろしま

 

 

今回の展覧会でも、最後の展示室に彼女の集大成的な一作としてデデーンと鎮座していました。

 

ひろしま」シリーズは、広島平和記念資料館に収蔵された原爆の被害者の遺品を撮影した作品です。

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ひろしま」における衣服のシワは、そこに生命があったことを思い出させるし、ほつれや染みや破れた穴を見ると、そこにあった生命が事実として完膚なきまでに打ちのめされて失われたこと、その痕跡が示す明らかさに、物理的に胸が痛くなります。

 

石内さんの持つ衣服やそのしわへの興味と、衣服がまとう歴史の完全な一致が、切実な反戦のメッセージを発しているこの作品は、まさに奇跡の出会いスパーーーーク!!です。

 

 

だけど、 わたしは「ひろしま」を見ていると、被写体が持つ歴史よりも、しわや衣服の素材感など、石内さんの局所的な興味のほうが優っている気がしてしまう。

広島である必要があったのかなー?と。

 

ひろしま」以前の彼女の作品を見ていると、パラパラ落ちる塗装とか、ぼこぼこ、しわしわ、みたいな肌触りのあるもの(つまり肌理!)への純粋な、無邪気な関心が写真に充満しています。

 

だけど、どうも「ひろしま」は、彼女の無邪気で強いモチーフへの関心を鑑賞するには「広島」の歴史とそのイメージが強すぎるし、この写真から「広島」に思いを寄せるには彼女の肌理への執着が強すぎる。

彼女の作品のなかでは、作品と社会(歴史)がつながり大きな広がりを持つようになった意欲作と言えるかもしれないけど、実際のところ、彼女は変わらず自分の興味を探求し続けているんだな、と感じます。

 

実際、こちらの👇インタビューによると、やはり、「ひろしま」は、編集者さんの、「広島」を撮ってみませんか?という話から始まったシリーズのようですね。

www.magazine9.jp

 

石内さんの言葉を読んだり写真を見たりすると、どうやら彼女はカメラを通して被写体と会話をしているようです。無邪気。

それは、きっとこれまでもそうだったんだろうな。

 

彼女がこのインタビューで「わたし自身は広島となんの関係もなかった」という趣旨のことを語っているように、この出会いは偶然だけど、だからこそ尊いとも言えるのかも。あのような強い作品ができるなら。

写真家の興味と被写体が持つ歴史の出会いは奇跡だし、「広島」の恐怖を広く強く伝えて人々の目を開かせる力は、原爆ドームのあの骨組もよりも、もしかすると強いかもしれません。 

 

わたし個人としては、彼女の写真は「ひろしま」以前の、誰かや何かの痕跡の残る「肌理」への純粋な興味に満たされた超写真的写真におもしろさがあると感じていたから、「ひろしま」はなんとなくやや意味が多すぎてしまった感じがしちゃいましたけど、

ひろしま」までの写真的モチーフとの選択、そして、「ひろしま」でのモチーフとの出会いを見ると、彼女は写真的なモチーフに愛された写真家なんですね!

 

あ、あと、最後に。

そういえば、初期のモノクロの作品は粒子が荒い、いわゆるアレブレ的な作品でしたが、そのザラザラ感もまた、肌理ですよね。

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肌理の「ある」ものを、粒子(肌理)を際立たせた写真にすること、こっちは肌理的肌理写真ってかんじ。キメキメ?

 

 

3月4日まで。横浜美術館です。ぜひ!