おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

今を生きる写真家と踊らない都市 - 「写真都市展」について。

こんにちは。

 

きょうは、21_21 design sightで開催中の「写真都市展 —ウィリアム・クラインと22世紀を生きる写真家たち—」展についてです!

 

f:id:yzgz:20180413223055j:image

 

あれいま何世紀だっけ?と思っちゃったんですけど、記憶違いじゃなければいまは21世紀。なので、「一歩先行く」的な用途での「22世紀」なんでしょうね。

 

今回の展覧会は、ウィリアム・クラインという「都市写真」の大巨匠を出発点にして、写真を通した新しい(都市への)アプローチを見ていく写真展です。

 つまり、今回の写真展の中心は、後者。「22世紀を生きる写真家たち」です。

「22世紀」っていうの、どうしても気に入らないんだけどさ。。

 

せっかくなので、クラインという大巨匠が撮影した都市と、いま、写真というアプローチで都市に迫ることについて考えてみたいとおもいます。

 

ウィリアム・クラインの写真を初めて見たのは、多分大学1年生の時、授業のなかでだった気がするのですが、おしゃれー、センスいいーと思った覚えがあります。

 

f:id:yzgz:20180411215203j:plain

 

確か同時に、ファッション写真の分野でも活躍した、という解説もうけてそれにも合点した(気がする)。

 

粗暴なインパクトで勝負しているように見えながらも実は上品でセンスがいいかんじで、(概念としての)銀座のがっつり系ラーメン?のような。

どろどろに濃いけど洗練された出汁がうまい、みたいな….....

アレブレボケの手法が煩雑なかんじを出しながらも、構図やポーズがとっても清潔だからなのか、そんな感じがします。

 

 

さて、今回、展覧会で改めてウィリアム・クラインの写真をまじまじと見て思ったのは、ダンスの写真みたいだな、ということ。

確かに東京で撮影されたシリーズは実際に舞踏家のひとたちを撮っているのでそりゃそーだって話なのですがそれ以外の写真についても、わたしはダンス写真らしさ、を見たのです…

 

先日、お仕事で膨大な数のダンスの写真から良い写真をセレクトしていて、それを見ていたときの感覚をクラインの写真に覚えました。

そのとき、ダンスの写真を見ていて思ったことは、ダンスは無限回数のポーズの連続だということ。

 もちろん、ここがキメポーズ!ってところが、多くのダンスにはあると思うのですが、ダンスは、写真にすることによってそこに至るまでのからだの動き、動きと動きのあいだの動きにも意識や意図が見えるようになるので、ダンスを撮った写真を見るのは楽しい経験でした。

 

じゃあクラインの写真がどう「ダンス」なのか?というと、ウィリアム・クラインが都市を撮ると、写ったひとの無意識やおそらく演出のそとにまで繊細な意識が宿っているみたいに見えてくる気がするから!

 

動きと動きの間の動きが写真で見えた時の「あ、見えた」あるいは「見ちゃった」の感じが、クラインの撮った都市にはあります。

 

つまり彼が撮ると「都市写真」が「ダンス写真」になる。

そういう意味で彼は「都市を踊らせる」写真家なんて言えるのかも?

ふ〜かっこい〜〜

 

 

と、ここまでクラインについて考えてきましたが、都市を踊らせる大巨匠と対になって紹介されている22世紀の写真家たちは都市とどう関わり合っていたのでしょう?

 

展覧会の「22世紀」セクションの写真を見て印象的だったのは、クラインの写真にあった「踊り」的要素がほとんどゼロだった、ということです。

 

ウィリアム・クラインが都市を踊らせるとき、それは写真によって達成されます。

彼の写真が、都市を空間としてではなくて、断片的な瞬間として輝やかせている一方、「22世紀」の写真は、「瞬間」とは全く違う時間のなかで都市へアプローチしていきます。

 

西野壮平や、安田佐智種の作品(特に「みち(未知の地」)は、複数回のシャッター、撮影者の物理的な移動、それらの統合によって作品の構造の中に複数の時間と空間を持ち合わせています。

 

須藤絢乃の作品にも、

1.過去に行方不明になった人(の写真)

2.カメラのまえでその写真になりきる私

という複数の時勢や人称が含まれています。

彼女の写真を、「都市」と結びつけるのはわたしには難しいんだけど。。

 

彼らとクラインとの違いで考えるならば、「22世紀」の写真には「あ、見えた」とか「見ちゃった」という感じはありません。彼らの写真を見た感じって、都市の「観察」に近いかも。

 

彼の写真を「見る」行為は、瞬間の「あ、見えた」的発見とはちがって、「観察」のように持続的に発見が続いていく感じがあります。

 

そういう「22世紀」の写真は都市を踊らせることなく、写真で都市の持つ空間とか時間を積み重ねて、組み立てて、写真の中で蠢めき、息づく都市をふたたび作り出しているのです。

 

このように、この展覧会においては、写真が空間や時間を圧縮するだけではなく、空間や時間を組み立てて、多元的な都市の実像に近づいていく方法のひとつになっていたんですね。

 

ところで。

先にややじゃっっかんふれた「22世紀」問題にふれておきます。

わたしが「22世紀」のなにが気に入っていないか、というと、今回「22世紀」の写真家と呼ばれた彼らを、特異性のある未来志向の写真家あるいはアーティストとして扱うことにぜーんぜん納得がいかないからです。

だって、彼らは紛れもなくいま、この現代、21世紀に生きているし(22世紀になったときにも生きているかもしれないけど)、彼らの写真を通した都市へのアプローチをいつか必ずくる「未来」の表現と位置づける写真観、ノスタルジックすぎませんか?何時代?て感じ。 

 

クラインの写真は、いま見てもフレッシュに目が喜ぶ感覚がありますが、あれが過去のものであることは明確だし、(かといって古いから悪いとも思わないけど)

クラインとは全く別の仕方で「写真する」のが2018年の写真家なのだとわたしは思っていて、そこにこそ、いま、まさにこの「今」の写真にこそわたしが写真のおもしろみと感じるものがあります。

 

「現在」や「現代」や「写真」という言葉には、複数の見方があって自分をどこに位置づけるのかはもちろん自由ですが、わたしはどうも、彼らを「22世紀を生きているようだ!未来志向だ!」として賛美するよりもっとよい判断のしかたがあるのではないかと思ってしまいます。

 

つらつらつらつら言ってますけど、写真のいろいろな可能性を見られる楽しい展覧会でした!(まじで)

6月まで開催しているようですので、ぜひです!

 

www.2121designsight.jp

 

よかったら、みなさんのこの展覧会の感想もききたいなあ!

 

 

あと、さいごのさいごに...

 

今週、先週と、荒木経惟の件で、写真の世界は大変動揺していますね。

せっかくいまブログを書くのにこのことを無視するのもいやだったので、ひとこと。

me too運動を巡るいろいろな人の意見に傷ついたり鼓舞されたり、自分のなかのダブルスタンダードに反省しつつも、わたしは私写真の終わりを支持します。

リクエストをいただいたので、近いうちにこのことをまた書くかもしれません…

 

ではまた!