おとといまでの私にわからせるためのブログ

写真のことと、美術のこと、あと好きなことについて。私にわかるように書いてます

目「非常にはっきりとわからない」展を一生懸命努力してよくわかろうとすることの悲しみ

 

千葉市美術館にて、目「非常にはっきりとわからない」展を見てきました。

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閉幕2日前にすべりこんだので、もう展示自体を見ることはできないのですが、自分のために、考えるポイントをまとめておきたいとおもって、書きます。

 

まず、わたしとしては「気に入らない」 のが率直な感想。

とはいえ、面白がり方はあるな、とも思っています。

面白がることができるほうが、ある種、豊かだし幸福である気がするのですが、実際わたしはそうじゃなかった。だから「面白い」と思えたひとたちの考えを想像してインストールしてみようとおもいます。実はわたしは展覧会を「好意的に見る」努力がちょっと好き。

とはいえ、自分の考えたこともやっぱり残していこうとおもいます。悲しかったから。

(※ちなみに、この記事は展覧会を見にいった人向けかも。。。どんな展示だったか知りたい人には向いてないかも?)

 

今回の展覧会が、他の展覧会と大きく異なる点はまず、展覧会自体がひとつの作品である、ということでしたね。

そして、この展覧会の、最初のおどろきは改装中の千葉市美術館の「改装」が、展覧会全体になだれ込んでいるような状態に向けられたものだったのではないでしょうか。

これはこの作品においてごくごく最初の驚きではありますが、これだけでも十分におもしろがることができるかもしれません。

  

以下、この展覧会における気づき★驚き★感動★ポイントを箇条書きにしてみます。

(他にもあるとおもうのでおしえてください……)

 

・美術作品が単なる「モノ」として転がっている状態 

いわゆる美術館の展覧会では、作品は壁にかけられたり台座に置かれるなどして、自律的な価値を持ち、鑑賞者からありがたがられます。ですが、設営の最中では、梱包された状態の作品はぞうきんや、スリッパと同じように単なる「モノ一般」にすぎません。今回の展覧会では、作品をインストールする光景(のパフォーマンス)が用意されており、展示という行為が魔法のように単なる「モノ」を「作品化」するシーンに立ち会うことができます。

展覧会にいくとき、わたしたちはいつも凍結し、固定された、完成したものを見ます。今回の展覧会は自らが他の展覧会とは異なり流動的な状態である、という演技をしている状態でしたよね。

 

・「美術館」という場がすべてを作品化するということ

改装中/設営中の美術館を装う今回の展覧会をみるとき、「展覧会自体」が作品なのだ、と気がつくまでわたしたちは「作品」をさがしてぐるぐると回ります。もしかしてこれが・・・?と思うとそれをながめ、鑑賞します。やがて、この場所全体が作品なのだと認識してからも、「作品らしさ」を探す目線を、会場内にあるすべてのもの(ひと)に送ることになります。このように「美術館」という場にわたしたちの態度がコントロールされちゃうのはちょっとおもしろいことかもしれません。

とはいえ、これって男性用小便器を美術館に作品として展示したデュシャンの『泉』的な発想の転換の周回遅れの焼き直しという気がします。少しも作品とは思えないようなものも「作品」となりえるのが「美術館」の乱暴さであり、そこにあるものが「作品」(という立派なモノ)であるというのは、「美術館」に対して抱かれがちな幻想です。津田大介さんがツイートで述べてたように、この作品にあいトリ騒動に関するアンサーを見るのはこのあたりの手法についてのことではないでしょうか。

 

・7階と8階/同じことと違うことへの気づき

展覧会場となっている7階と8階には、全く同じだ!という部分と、あれはここにあったっけ?というようなズレが用意されています。上記の「作品化」によって、鑑賞者は「違う部分」と「同じ部分」を無意識にも探してしまう。これは単純に「わかる」経験に近いし、「見っけ!」的な快楽がある。あるいは、帰宅中にツイッターで「非常にはっきりとわからない 考察」とググってみたら、あの丸い絵画はXXで、これはXXをあらわしていて・・・」というような投稿とかを見つけましたが、それも「わかる」快楽の探求の一貫でしょう。

目がデュシャンと違うのは、この、超絶技巧的なインスタレーションですよね。わたしは、写真家トーマス・デマンドの作品について、マイケル・フリードが「意思が浸透している」(だったっけ...?)と言ってたのを思い出しました。この場所にあるものには、無意識っぽくそこにあるような雑物にも人間の意思が行き届いているんだ!というマン・パワーへの畏怖を抱くこともできなく・・・ない・・かも・・・。

 

・作品を見る人を見ること

展覧会には作品と思しきものもいくつかあったし、(スケーパーと呼ばれるらしい)搬入スタッフになりきったパフォーマーがいて、展示作品を移動したり、ダンボールなどの備品(に見えるもの)をせーの、で動かしたりしていました。鑑賞者の多くは一生懸命そのひとたちの一挙手一投足を見つめて、そこになにかのほころびやサインがないか見つめていました。あるいは、他の鑑賞者が一生懸命見ていたなにかを見ればなにかわかるかもしれない、とでもいうように、人の群に人が群れるような様子もありました。

わたしはその誰もが、心もとなく、なんらかの「わかる」をもとめているように見えたし、その光景に詐欺まがいの、なにかひどいことをみている気がしてしまいました。だって、「わかりそう」は用意されているけど「わかる」は用意されてないし・・・。

 

・どこまでが人為?という問い

7階と8階の「違う部分」と「同じ部分」や、改装中の施設という外側の状態が展覧会の内容にずるずるずるっとつながっていることなどがもたらす効果として、7階・8階から地上へ降りた時にもこれも「なにかなのか?」と思ってしまう、というのがあったと思います。となると、展覧会を見たまえとあとで、世界の見え方が変わってしまう!というような経験ができるかも。それは、すごく大きくて豊かなオイシイ宿題です。わたしはなにも持ってかれなかった・・・。

 

さて、ちょくちょく自分の話をはさみつつ、「非常にはっきりとわからない」展のおもしろがりポイント(でありながら同時にがっかりポイントにもなりえること)について考えてきました。

 

このように、おもしろがれるポイントがあることを、わたし自身にもいま「わからせた」ところですが、やっぱりわたしはどうしても「気に入らない」の気持ちが消えません。

 

それは、今回の作品が、「美術館制度批判」という戦術(前述したデュシャンが使った戦法)に加え、インスタレーションの超絶技巧を、美術館を批判するというよりは、鑑賞者を突き放し、もてあそぶために使っているような気がするからです。

間違い探しや考察などを誘うような仕掛けをいくつもほどこして、美術館という場において「作品」というものに「意味」や「わかる」を探してしまう鑑賞者を迷子にしてしまう。意味ありげ〜だけど、結局のところ客は、ポスターのなかにあるように、箱のなかでわけもわからずぐるぐるぐるぐるさせられて見下されている気がしてしまいます。

もちろん、「わからない」ことの豊かさを見出すことができるひともいるとは思いますし、そういうタイプの作品もあるけれど、これはちがうんじゃないか。と。

 現に、プレスリリースにも「突き放す」という言葉が含まれるように、「突き放す」が目的でありながら、多くの鑑賞者を「わかる」快楽に誘い込んでアトラクションとしての満足しか与えないのは、ちょっとずるではないのか。と、わたしはおもってしまうのでした。

とはいえわたしも、間違いさがしが好きです。この夏もサイゼの間違いさがしをしたけど、今回、どうも7階と8階を行き来して記憶の限界☆間違い探しチャレンジ!する気にはなれなかったな・・・多分いっぱい行ったり来たりしたほうが「今何階!?」ってなって楽しめたんだろうけどね。。。。やる気出なかったな・・・。

 

千葉市美術館「目 非常にはっきりとわからない [mé]  Obviously, no one can makes heads nor tails.」展は2019年12月28日まででした。

 

2019年の展示納めだったかな!

 

www.gentosha.jp

幻冬舎plusで、現代アートに関する連載やってますので、よかったら見てください!

 

2020年はどんな年になるだろうね!ハム太郎!!!!!

来年もよろしくお願いいたします。ではまた!!!!!